法隆寺西圓堂 薬師如来像

薬師如来坐像(法隆寺西円堂)
出典:『法隆寺大鏡』(1926年)
Wikimedia Commons掲載画像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yakushi_Nyorai_Saiendo_Horyuji.jpg

SNSでこの写真をUPされている方がおられました!当サイトへの掲載も問題ないようですのでUPします。

この空間に約6500口もの刀剣類が・・・圧巻です。(写真にあるのは極一部。八角のお堂内全面に刀剣類が掛けられていました)
西圓堂の修理時に全て降ろされたわけですが、この状態も見てみたかった。ここからの軍刀供出も大量で、無念。

西圓堂 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
馬手指(一) | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
馬手指(二) | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
姿を | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
法隆寺へ | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
馬手差の拵を | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
馬手差 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
小柄櫃 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
無題 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
入鹿實可拝見。馬手差しのこと | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
鷹匠 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区



本能寺宝物館「五箇伝の名刀展」『押形』

押形とは、刀身に紙を当て固形墨(石華墨)を用いて茎の形や鑢目、銘などを刷り出したものをいいます。さらに刀身の輪郭や鎬筋など各部の線を引き、刃文を描写した刀絵図をも含め、押形と称します。また押形には、茎や刀身の一部のみを記録する「部分押形」と、刀身全体を表した「全身押形」とがあります。

押形の原初的形態は、最古の古剣書とされてきた『観智院本銘尽』(応永三十年筆写)にみられます。
しかしそれは稚拙な表現で銘や鑢目を記した程度で、茎を正確に記録しようとする意識が感じられるものではありません。
室町後期の『往昔抄』になると、銘字や鑢目、茎形状に至るまでが記録されるようになり、茎の特徴を詳細に伝えようとする意識がうかがえます。

東寺塔頭 観智院
東寺塔頭 観智院

押形において、茎の記録とともに重要なのが刃文の記録です。
刃文までを記録した押形は室町時代末期頃に登場し、弘治二年(1556)の奥書をもつ『本阿弥光心押形』がその嚆矢とされます。
刀剣の贈答がそれまで以上に盛んになる中で、幕府や大名家には刀剣を鑑別・管理する専門家が求められ、次第に刀剣書が整備され、以降押形は、茎と共に刃文の記録を重視したものとして発展してゆきました。

(先ほどあげた『観智院本銘尽』ですが、この書は長らく”最古の古剣書”とされてきました。
『観智院本銘尽』は非常に貴重な歴史資料ですが、その価値は古さのみにとどまらず、底本を増補改訂せず伝来した点にあります。底本は鎌倉時代末期から南北朝初期の成立と考えられますが、応永年間に行われた筆写が、刀剣の専門家ではなく僧侶によるため、原形をよく留めることになったと考えられています。しかし近年、これを半世紀以上遡る南北朝期に書写された『龍造寺本銘尽』が九州産業大学の吉原弘道先生により発見され、こちらが最古となっています。)

このように発展した押形は、刀剣の情報を後世に伝える記録資料として重要な役割を担っています。
その一例が、大坂の役や明暦の大火で罹災した刀剣を多数記録した本阿弥光徳直筆の絵図資料、所謂「光徳刀絵図」です。
ここには焼損・焼失以前に記録された刀剣の姿や刃文、銘が記され、名刀の毀損前の状態を今に伝える極めて貴重な資料となり、この記録をもとに復元が行われた例は少なくありません。

短刀 銘 吉光
     令和四年 本能寺什(棟銘)一平
(河内一平刀匠の薬研藤四郎写。本能寺の変で焼けたといわれ現存していませんが、光徳刀絵図に焼ける前の状態が記録されており、それを元に再現されています。)

写し物 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
新作写しもの | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区



本能寺「五箇伝の名刀展」大和・山城編『龍門』

多武峰南東にはかつて龍門寺があり、この地は千手院派の流れを汲む龍門派の作刀地と伝えられます。
延吉をはじめ複数の刀工が知られるものの、延吉以外の現存作は極めて稀です。
多武峰・談山神社には、龍門吉行とされる太刀が伝来し、大変貴重な作例として知られています。
今回の本能寺宝物館、五箇伝の名刀展では、龍門長吉の全身押形を展示しています。



本能寺「五箇伝の名刀展」大和・山城編『当麻』

本能寺宝物館で開催中の「五箇伝の名刀展」に展示の全身押形、朱銘当麻。

保昌の鍛刀地である橿原市曽我町付近より西、大阪府と境を接する二上山の麓に当麻派の作刀地とされる、葛城市當麻(たいま)があります。
当麻派はこの地に栄えた當麻寺と関係があったものと考えられていますが、他の大和物同様、詳細は不明です。
当麻派は国行に始まるとされますが、国行在銘の作は僅少で、藤沢乙安コレクションの国宝太刀、藤田美術館の重文小太刀の他数口のみです。
国行以外では友行、友清、友長、有俊らがいますが、太刀の在銘作はほぼ残されておらず、数口の有俊の他、談山神社の友清太刀が知られる程度です。

当麻派の短刀・脇差には複数の在銘作が現存し、友長・友行などの作例があります。
また「ヒヤウエノデウ(兵衛尉)」とカタカナで切るもの、「當麻」とのみ切った銘等があり、貴重な資料となっています。
当麻と尻懸 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区

参考押形 : 室町期の当麻派と伝える短刀、有王有光(旧コンプトンコレクション)。
なお談山神社には有王有光の鵜首造の刀が伝来しています。



本能寺「五箇伝の名刀展」大和・山城編『千手院(二)』

大和国では千手院派が最も古い流派ですが、その成立以前の大和物として獅子王の太刀(無銘)が知られます。今は後天的要因による変容がみられますが、元来は鎬筋が身幅のほぼ中央に位置し、切刃造に近い造り込みです。大山祇神社に伝わる古太刀との共通性が指摘され、大和鍛冶の古態がうかがえる貴重な存在です。

現存する千手院派の在銘作は多くはありませんが、「千手院」と銘を切る最古とみられる作例は東京国立博物館所蔵の一口で鎌倉時代初期頃の作と考えられています。このような初期作は、今回展示の鎌倉後期の千手院とは趣を異にし、細身で小鋒の古典的な太刀姿を呈し、直ぐ刃調小乱れ主体の古雅な刃文を焼いています。また、過去の重刀指定品を見ると、吉光・助光・行光・長光・国光・国清・為清・為近・重久などの在銘の指定があり、「千手院康重」と長銘を切るものや、「東大寺延家」と大寺院の名称を直接用いた例もあり、寺院との関係や作刀組織の在り方を考える上で大変貴重な作品です。

大山祇神社には国宝の大太刀「千手院長吉」が収蔵されています。刃長は135.74㎝と長大で貞治の年紀があり、南北朝期における同派の代表的作例として知られます。この太刀は鎌倉期大和物の特徴は薄れていますが、破綻なく鍛えられたその刀身に、南北朝期千手院派の高い技術を見ることができます。

本能寺五箇伝の名刀展出陳 剣 無銘(千手院)

千手院派は、剣の作例が多いことでも知られ、大和五派中同派の剣が最も多くみられます。
重要刀剣指定を例にあげれば、諸国・諸流派を通じて千手院派の剣の指定数が群を抜いており、このことは同派と寺院との密接な関係を示すものといえます。
無銘の大和物を極めるにあたっては、最も華やかな出来に千手院の極めが付される傾向がみられます。これは在銘で現存する千手院義弘や同派の流れを汲むとされる龍門延吉などに見られる華やかな出来に依拠したものと考えられ、今回展示の無銘千手院も、太刀・剣ともに、柾目地に変化に富んだ刃文を焼いています。



本能寺「五箇伝の名刀展」大和・山城編『千手院(一)』

本能寺宝物館「五箇伝の名刀展」無銘 千手院 (重要刀剣)

千手院派は、東大寺あるいは興福寺に隷属したと考えられる一派で、若草山西麓の千手観音を祀る千手堂付近で作刀した刀工群と伝えられています。
手掻派の作刀地とも近接し、この一帯は古くより大和における刀剣製作の中心的地域でした。


大和鍛冶は古代国家の中枢と深く結びつき、寺社勢力の庇護のもとに展開したと考えられています。東大寺・興福寺などの大寺院は刀剣製作にも関与し、僧兵の存在と相まって、その需要と技術の蓄積を支えていました。千手院派もこうした環境の中で成立した一派とみられます。

千手院派は大和五派中最も古い系統とされ、その成立は平安末期にまで遡ると考えられています。
しかし大和鍛冶の初期段階には在銘作がほとんどなく、その実態をうかがうには古伝書に頼るほかありませんが、千手院派の作品はその大和鍛冶成立初期の姿を今に伝える存在といえるでしょう。



本能寺「五箇伝の名刀展」大和・山城編『手掻』

本能寺で開催中の「五箇伝の名刀展」出陳刀、手掻包清(手掻派/室町時代末期)の刀です。

鎌倉時代後期、東大寺西方の転害門(てがいもん)付近に住した包永を祖とする手掻派は、大和五派中もっとも隆盛を極めました。
現在も、国宝の転害門の西側には「包永町」の地名が残り、往時の鍛冶の営みを今に伝えています。

手掻包清初代には鎌倉末期、嘉暦四年紀の短刀があり、二代包永の子、或いは弟子と伝えられます。
包清は同銘で七代にわたり継承されたといい、今回の出陳刀は代別は明らかではありませんが、室町期の末手掻包清の作品です。

大和物の造り込みの特徴として、鎬が高く鎬幅が広い点が挙げられますが、これは主に鎌倉〜南北朝期の作に見られるもので、室町期に入るとその個性は次第に薄れ、造り込み・作風ともに一般化した作品となります。
今回展示の包清も鎬幅尋常で柾気は見られず、穏やかで整った出来となっています。

室町期の大和物は手掻と後代則長を除き、諸流派の作例が殆ど見られなくなります。
そうした中で手掻派は、包行、包俊、包真等々、いわゆる末手掻の刀工達が大いに繁栄し、室町時代末期へと続きます。
そしてその命脈は、南紀重国や越後守包貞など新刀期の名工へと受け継がれて行きました。



本能寺「五箇伝の名刀展」大和・山城編『保昌』

本能寺宝物館で開催中の「五箇伝の名刀展」出陳の短刀、大和国藤原貞興(保昌派・鎌倉時代末期/特別重要刀剣)。

保昌派の作刀地は大和国高市郡(現在の橿原市曽我町付近)であった事が現存作品の銘文により明らかです。
大和物は銘の切り出しが高い傾向にあり、本作も鑢の掛け出し付近に銘の摩滅があるものの「大和国」と判読できる状態を保っています。

大和物は総じて柾気が強いことで知られていますが、保昌派はその特徴が際立ちます。
本作にも明瞭な柾目肌が全身にあらわれ、その肌目にからむ刃文が繊細かつ大胆な働きを見せます。

大和物は在銘作が少ないことで知られていますが、保昌派は一段と遺例が乏しく、太刀では貞継(重文)、貞吉(重美)、貞興(特重)、貞行の作品が知られるのみです。
因みに、談山神社には「大和国住貞光作」をはじめ複数口の保昌派の短刀が伝来しており、また春日大社の重文「柏木兎腰刀」に納まる短刀も同派の作品と伝えられています。



右手指・右手差・馬手指・馬手差

過去のブログをみていたら、「右手指・右手差・馬手指・馬手差」を統一感無しに使ってしまっていました。
特に深い理由はありませんが、今は字面がカッコいいからという気持ちで「馬手差」を使おうと思っています。
しかし『法隆寺西圓堂奉納武器』では「右手指」だったはずで、その事を書く時に勝手に変えるのも良くないですし・・・。

「馬手差」「右手指」などで検索したら、この拵についてちょうど同じ様な事を考えている方が居られました。
ですよね、やはり気になりますよねぇ。通説・定説だけでは納得できない事って結構あります。



本能寺「五箇伝の名刀展」大和・山城編『尻懸』

本能寺宝物館で開催中の「五箇伝の名刀展」出陳刀、朱銘、則長 (大和国尻懸派/特別重要刀剣)。

柾気の強い地鉄に連れた互の目を焼く、尻懸派の典型作です。
押形でも確認できる通り、刃中の働き豊富な名品です。
これ→「尻懸刀全身押形 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区

千手院、手掻、当麻、保昌、尻懸の五流派は「大和五派」と称されますが、これらは大和の寺院と何らかの関係があったと考えられ、例えば尻懸則長の作品は法隆寺に20数口、談山神社には40口以上が伝来することで知られます。また談山神社からは「大和則長作」の太刀が明治天皇に献上されています。
尻懸派の作刀地は諸説あるものの、奈良県山辺郡旧岸田村が有力とされています。現存作の多くは則長銘で、鎌倉末〜室町期にかけて同銘で代を重ねますが、則長の他、則国・則真等20名以上が銘鑑に見えます。しかし東博所蔵の則真の剣を除けば則長以外の在銘確実な作品は乏しく、いまだその実態を掴み難い流派です。
当麻と尻懸 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区