入札鑑定会

今回は本部から日野原先生をお招きしての鑑定会です。

1号 短刀
重ね薄めに感じる。無反り。真の棟中広。
古研ぎで良く手入れされている地鉄。少し映り気。
匂い深く格調高い粒子。刃取ると直ぐ調になる刃で、出入りは小さく、しかし動きは様々。
表の腰から中央の刃中に尋常ならざる金筋。裏の刃縁に特徴的な湯走り多数。
帽子が印象強く大丸気味(裏が特に)。そして盛んに佩きかけ。

以前包丁正宗を拝見した時、映りが明瞭で驚いた事があったが、この短刀も古研ぎでなければ地鉄と映りが同質だと思う。
  映りがある | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)
帽子が決定的にこれ。 正宗と入札。


2号 刀
反り浅く重ね尋常。少し重い。二筋樋。
焼き幅広く帽子深く、よく詰んで最上質の地鉄。淡く映る。
新刀との声が多く聞こえるも、絶対に古く、抜群に良い刀。
広直刃の調子で湾れや互の目があり、中央付近逆がかり、島刃も。
裏帽子島刃に。

裏帽子だけなら長義、逆刃が無ければ長重、そんな刀で。
青江だと思うが個銘が分からず、なんとなくのイメージで入れてしまう。。青江次直と入札。


3号 短刀
長い。ギリギリ短刀か。無反り。刃線は少し入る。真の棟。
古い短刀でよく詰み、特徴的な荒い肌が表の各所や裏腰付近に顕著。
暗帯が出来るほど明瞭な錵映り。その中に黒く抜ける筋が複数。棟焼きは無い。
小錵出来の刃。焼き低めで乱れ。裏の尖りが強い。

反り姿は違うがサイズから一瞬安吉と言いたくなるほど尖る帽子だが、地鉄がこれ。
来国光と入札。


4号 太刀だと思う。
少しだけ踏ん張り腰反り気味で先も反り、幅バランスが間延びした感がある応永姿。先身幅を落とし小鎬高く微妙に延びる応永の鋒。
全体に少し肌が立つ風合い。
下半の乱れが少し小詰み小反風だが中程には大房もあり嫡流にも見える。全体にそれほど腰開きに見えず、福岡一文字風。
研ぎは差し込み研ぎ。全身の映りが常の応永よりかなり強く、映りが焼き頭から直接立ち上がる部分も多いが、焼き頭に接しない箇所は黒い部分が互の目形で帯状。この映りは裸焼と同じに見える。

古くは無いが小反か嫡流か迷う。。長船康光の区送りか・・・。
長船康光と入札。


5号 刀
太刀姿。古研ぎ。地を伏せている事もあるが多分元々詰み気味の地鉄。
錵出来の備前形の刃文。深い。帽子1つ乱れ込み先丸で倒れ。表裏同じ。
帽子以外は信秀の刃文を錵出来に変えた感じ。が姿は全く違う。

こんな造り込みの物は見た事が無いが、地鉄を伏せた上で、この刃錵の感じはあり得るかも知れない、と思って、左行秀と入札。


当同然

同然

5号、途端に難しくなる・・・。
水心子の錵にしか見えなくなって来てしまう。が、流石に水心子とは入れられず。
石堂とは絶対違うと思うし・・・。
次郎太郎直勝と入札


当同然

同然

最後の入札になってしまった。。新々刀は感覚だけでは当てられず、知識と明確な意識を持った経験が必要な事を、毎度ながら改めて思い知る。
加東綱俊と入札。


当同然

同然
同然

1号 短刀 朱銘 正宗(蜂須賀正宗)

2号  刀 無銘 青江

3号 短刀 来国光

4号 太刀 備州長船家助 
      永享九年八月日

5号  刀 為村上重君石堂運寿是一精鍛造之 
      嘉永七年甲寅歳二月日

青江の研磨が美しく、研磨コンクールに出品されているかもと感じる。
是一経験が少なく、過去の研磨でも多分新々刀是一は25年ほど前に1口、新刀是一をこの10年で2口。新々刀是一は確か刃中がこんなに錵ておらず。新刀は匂い出来。石堂の沸え出来の刃を勉強出来た。新々刀をこんなに伏せて研げる意思が凄く、多分あの方(故人)の研磨かと想像する。





こんな感じになりました

押形にしたい刀全部をとる時間もなく、とりあえず今はあと短刀と描きかけの太刀と末備前です。




やり直しました

先日来進めていた全身押形。↑ここまで進んでいましたが全然ダメなのでやめました。

↑二枚目。
研ぎも押形も、やり直す時は無になって作業を行うのですが、無になり過ぎて茎を摺った最後に茎の輪郭を硬質色鉛筆で明瞭にする作業を忘れてしまいました。誰にも気付かれない自分だけのこだわりですが、これはやり直しが出来ない作業です。。残念。
刃文描写、やり直してよかった。これも自分しか分からん事かもですが、一つ成長出来ました。



刃切れ

昔は刃切れを気にしなかった説もやはり問題ありかと思います。
刀を使用した際一撃で折れたり、或いは何度かの使用で突然折れる場合は別ですが、何度も使用し段階的に傷んで行きやがて折れる場合、まず最初に起こる現象が、曲がり、うつむき、刃切れ、このどれかです。この事は荒試しの結果などに記されています。
損傷の第一段階を既に過ぎている刀を普通は嫌いますよね。。(ここで言っている刃切れは後天的なケースです。焼き入れで生じる刃切れとはまた別です)ただ、刃切れがあるだけで全てが完全否定されるのを非常に惜しく感じる事がありますし、何らかの救済的考え方があっても良いですね。
以前は保存審査基準に「刃切れのある物は不合格とする」との一文があったはずですが、今はありません。
今後は考え方も変わって行くのでしょうか。



刀の傷

江戸時代以前は現代のように”刃切れ”を気にしなかった説を唱える人は結構多いです。(本当かどうか、私には分かりません)
同じ様に、刀の鍛え傷を気にするのは現代だけだという人も居るようですが、それは言い過ぎですね。

写真は数打ち刀ですが、この刀には埋鉄が沢山入っています。
ちょっと見え難いのですが本当に沢山入っていて、5個や10個ではないと思われます。
そしてどれも長く。長さ3,4㎝は普通で、確認出来る長い物で6,7㎝には達しています。
研磨している研師なのになぜ埋鉄の数が曖昧なのか、それはあまりに鉄が合い過ぎていて見つける事が困難だから。
この事はブログに度々書いていると思いますが、この種の埋鉄は、刀が製作された後の時代に行われた物ではなく、刀工が刀を製作する過程で行われていると思われる物です。では何故そうだと分かるのか、それは鉄があまりに合っているから。
埋鉄は入れる鉄の選定が非常に難しく、どんなに慎重に選んだとしてもそう簡単に完璧に合う事はありません。
この様に発見する事が困難なほど完璧に鉄が合っているという事は、その刀を製作した鉄その物を埋鉄として入れて居るからです。
根拠がこれだけだと、「いやいや鉄を完璧に合わせる埋鉄名人だったかも知れないじゃないか!」と言いたくなってしまう所ですが・・・。
こういう埋鉄だらけの数打ち刀、刃中にも普通に埋鉄があったりするんです。普通はやりませんが一応現代なら超鋼合金のタガネもありますし、その他の手法も含め刃中を埋める事も可能な訳ですが、江戸以前に刃中に埋鉄があるという事は、焼き入れ前に埋鉄を行っているという事になります。ですので刃中の埋鉄にも普通に焼きが入り、精査しなければ発見出来ない状態になっています。
埋める際の技法は現代の様に繊細な仕事はしておらず、いうなれば、雑。普通はこんな雑なやり方では妙な事になってしまう訳ですが、焼き入れ前の柔らかい刀に、その刀を造った鉄その物を使って埋める訳なので、こんな短時間で作業が出来る雑なやり方が可能なのでしょう。
そういう仕事なので、数打ちの当時の安刀に10も20もの埋鉄が可能なのだと。
そんな数打ち刀でも少しでも傷を減らすために沢山埋鉄をしている訳で、昔は傷なんて気にしなかった説はちょっと言い過ぎですね。

過去ブログを検索したら幾つかありました。
フクレ | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)







また別の刀の全身押形の採拓を

こんかいは09シャーペンで下書きを。
ブログは毎日押形の事ばかりですが、研磨以外の時間に行っている作業です。
研磨のお仕事はしっかりと進めています。

私ビジネスマンではありませんし伝統職人なので自分から出る言葉ではありませんが、色んな方との会話の中で「ニッチ」という単語が出て来る事が結構あります。
それまで誰も注目していない分野を開拓する、素晴らしいですね!
で、ニッチ以下を指す言葉ってなんなんでしょか。あ、ニッチ以上ですか?!どっちだ。。
”押形”ってニッチ以下(以上)ですよね(押形をやっている方々すみません)。
もうだいぶ昔ですが、押形ばかり練習していたら刀匠さんから「玉置君押形なんか上手くなってどうすんの」と言われた事がありましたが、なんの反論の気持ちも無く私もそう思いました(今でも)。(その後かなりの年月が経ち押形で賞を頂いた時その刀匠さんから「凄いねおめでとう!!」と心からの言葉を頂き、ちょっと感動に近く嬉しかったのを覚えています)
私承認欲求もそれ程ないようですしSNSに投稿する事も無く、”今時誰も見ていない”と言われるブログ、しかも拡散力ゼロの独自サイトのブログに細々と投稿しているだけですが、それなりにネット投稿は楽しんでいます。(延々続けたくなる砥石投稿と同じで宣伝の気持ちゼロです)
以前はネットで「押形」と検索しても少数程度の他サイトかうちのHP位しか出て来ませんでしたが、今では書籍やらサイトやらと色々ヒットする様になりました。
しかし世間の認知度が上がったかと言えば、ほぼ変わらんでしょう。
変わったように見えている物は、幻想みたいなもんです。一部のニッチな人達が見てくれているだけです。(あっ)
今日シャーペンで下書き後に墨入れしながら自分の画力の限界を感じつつ、そんな事を考えました。
(いつも括弧書きをなるべく使わない様にと思っているのですが、今回めちゃ多くなりました。読みにくくてすみません。)





変わる

映りはかなり淡いので描き込まずに完成としました。描いた方が賑やかになり上手くなったような気分になれるのですが、その為にというのはちょっと違いますしね。

途中だった太刀に戻り続きを。
先日までとは驚く程に勝手が違います。
あもしかして、”勝手が違う”という表現はネガティブ方向の表現でしょうか。調べるのが面倒なのでそのままで行きますが、やり難いのではなく、見やすく描きやすくて驚きで。
古名刀の直刃調の微妙な揺らぎや、見えやすくはない刃中の豊富な働きを必死で見て描いていたので、少し時代が下がる大胆な刃文で、しかも差し込み研ぎで見やすくて。
単に見やすい刃文の太刀という事ではなく、一応自分が成長した面もありそうです。
再開してみたら刃文の形が違う箇所多数。。すみません、なんとか修正の方向で。
押形を始めて何年でしたか、もう20年くらいでしょうか。まだ成長出来るんですねぇ。諦めていたのに、驚きました。
また次に控えている刀がかなりの難物なので、それに活かせたらと思います。



佩裏の下書きをする

先日来の古いところの太刀、佩表の途中で佩裏の下書きに移ります。
片面づつ完成させるタイプの押形描きもいますし、部分ごと、数センチ単位でほぼ完成させながら進む人もいます。皆それぞれのやり方が。
シャーペンで下書きをする事もありますが今回は墨書きを下書に進めています。
全体の刃文が見える光線では帽子が見え難いのが普通の刀です。帽子だけまた別角度で照明をあてたり、自分があちこち移動し見える位置から帽子を描いて行きます。



その後の後

もう少し進みました。
映りは「鎬寄りに淡く」でした。一部地斑風の乱れ映りがありますが、かなり淡いので普通は見えないと思います。
所有者さんや研師によってはこの映りをもっと立てたいと思うかも知れませんが、そのままが良い事もあるわけです。

話は変わりますが、先日禅的鑑賞等に掲載の美濃刀数口を拝見しました。
山田英研師の差し込み研ぎが見事なのは、あの刀身に対する鑑賞眼から来ているのですね。
あれだけ細かい所まで見ていれば、それが見える様に研ぎたくなるのが研師です。安易に色々塗って見せる訳ではなく、多くを石使いで見せるのが素晴らしい。
また少しズレますが、最近ノサダの銘が下手だという話が世間で常識になりつつある事を知りました。
刀を見るのが研師スタートの私だからでしょうか、ノサダの銘を下手という感覚で見た記憶がありません。
我々現代人が文字を書く時は、せめて横棒の角度は揃えなければ下手字に見えてしまいますが、それでいえばノサダの銘は角度バラバラです。
私はノサダは末古刀の最高峰という位置づけが先にあり、最初からそういう視点で見た事がないからでしょうか、若い頃初めて本物のノサダの茎を見た時、良い銘だ、良い茎だと感動した事は覚えていますが、銘が下手とは思わなかったはずで。
幕末の書でしたか、ノサダの刀について、「悪筆を以て正真とす」的な事が書かれていた記憶が。その辺もノサダの銘は下手だという人のソースとなってしまっているのかも。

山田英研師の言葉をひとつ抜粋。(日本刀 本質美にもとづく研究) 
「(銘の美的価値) 普通真偽の鑑定はほぼ右のような一般的な古来の見方で間に合うが、これからは更に高く着眼して銘の文字の真価を鑑察しなければ徹底した鑑定は不可能であるし、又立派な文字の美的価値を鑑賞しないことは如何にも惜しい。古名刀の銘は金石文字の最高美と思う。優秀な刀ほど銘の書体が秀抜である。元来日本刀の銘は刀匠が自分の作刀に対して責任を明かにしたものである故に、極めて真剣な文字となっているのであって、この意味からも現今の書画の落款などとは比較にならぬほど厳粛なものである。武門の道義と生命のかかった日本刀の銘を鑑するに、現代世相の常識を以て簡単に律するようなことでは甚だ不適当といわねばならぬ。更に又銘の品位はその刀の品位と同じ高さであると見て差支えない。故に書としての美的価値の鑑察は最も大きな問題である。」

山田英研師はノサダの銘を折に触れて賞賛していますが、例えば禅的鑑賞にはこのように。
「形に執われず自由に転ずる筆意に禅機を感じ、達道の人の高い境地のみに通ずる非凡さがあり~」
銘一つとっても非常に奥深いものですね。

刃文を描く為、先ほどまで何時間も集中して数センチの範囲の連続で刀を見ていましたが、そんなものでは刀は見えませんね。
押形とはそういうものです。(あ、押形を否定している雰囲気の文面になってしまいました。そういう事ではありません。)

今日、現代の研師で一番好きな差し込み研ぎをする研師が研磨した短刀をお預かりしました。
やはり見事な差し込み研ぎ。多く見る気持ち悪い差し込み研ぎとは次元が違います。







その後

先日の梵字の太刀の途中↑から↓にチェンジする。

古い所の太刀。働き豊富。そういえば映りはどうだったか。。まだ刃文しか見ていなかったので地は意識に入っておらず。
押形は刀の勉強になるとは言いますが、要は意識次第です。押形なんぞやらなくても刀をしっかり見る目を養う事は可能です。