その後の後

もう少し進みました。
映りは「鎬寄りに淡く」でした。一部地斑風の乱れ映りがありますが、かなり淡いので普通は見えないと思います。
所有者さんや研師によってはこの映りをもっと立てたいと思うかも知れませんが、そのままが良い事もあるわけです。

話は変わりますが、先日禅的鑑賞等に掲載の美濃刀数口を拝見しました。
山田英研師の差し込み研ぎが見事なのは、あの刀身に対する鑑賞眼から来ているのですね。
あれだけ細かい所まで見ていれば、それが見える様に研ぎたくなるのが研師です。安易に色々塗って見せる訳ではなく、多くを石使いで見せるのが素晴らしい。
また少しズレますが、最近ノサダの銘が下手だという話が世間で常識になりつつある事を知りました。
刀を見るのが研師スタートの私だからでしょうか、ノサダの銘を下手という感覚で見た記憶がありません。
我々現代人が文字を書く時は、せめて横棒の角度は揃えなければ下手字に見えてしまいますが、それでいえばノサダの銘は角度バラバラです。
私はノサダは末古刀の最高峰という位置づけが先にあり、最初からそういう視点で見た事がないからでしょうか、若い頃初めて本物のノサダの茎を見た時、良い銘だ、良い茎だと感動した事は覚えていますが、銘が下手とは思わなかったはずで。
幕末の書でしたか、ノサダの刀について、「悪筆を以て正真とす」的な事が書かれていた記憶が。その辺もノサダの銘は下手だという人のソースとなってしまっているのかも。

山田英研師の言葉をひとつ抜粋。(日本刀 本質美にもとづく研究) 
「(銘の美的価値) 普通真偽の鑑定はほぼ右のような一般的な古来の見方で間に合うが、これからは更に高く着眼して銘の文字の真価を鑑察しなければ徹底した鑑定は不可能であるし、又立派な文字の美的価値を鑑賞しないことは如何にも惜しい。古名刀の銘は金石文字の最高美と思う。優秀な刀ほど銘の書体が秀抜である。元来日本刀の銘は刀匠が自分の作刀に対して責任を明かにしたものである故に、極めて真剣な文字となっているのであって、この意味からも現今の書画の落款などとは比較にならぬほど厳粛なものである。武門の道義と生命のかかった日本刀の銘を鑑するに、現代世相の常識を以て簡単に律するようなことでは甚だ不適当といわねばならぬ。更に又銘の品位はその刀の品位と同じ高さであると見て差支えない。故に書としての美的価値の鑑察は最も大きな問題である。」

山田英研師はノサダの銘を折に触れて賞賛していますが、例えば禅的鑑賞にはこのように。
「形に執われず自由に転ずる筆意に禅機を感じ、達道の人の高い境地のみに通ずる非凡さがあり~」
銘一つとっても非常に奥深いものですね。

刃文を描く為、先ほどまで何時間も集中して数センチの範囲の連続で刀を見ていましたが、そんなものでは刀は見えませんね。
押形とはそういうものです。(あ、押形を否定している雰囲気の文面になってしまいました。そういう事ではありません。)

今日、現代の研師で一番好きな差し込み研ぎをする研師が研磨した短刀をお預かりしました。
やはり見事な差し込み研ぎ。多く見る気持ち悪い差し込み研ぎとは次元が違います。





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