晴明神社

西陣舟橋の直ぐ南、晴明町には「晴明神社」があります。
古い資料によると創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったそうです。地図で確認すると、この面積は今の二条城の半分近くあり、本当に広大な敷地です。

2023年の晴明神社様の修復事業に於いて、ご所蔵の刀、長船祐定の研磨をさせて頂きました。
写真は本能寺様での押形展示の様子です。
重ねが厚く大変健全な祐定です。
ご由緒|晴明神社 (seimeijinja.jp)



西陣舟橋

せっかくなので行ってみました。
雪もちらつき、今年で一番寒かったかもです。。

西陣舟橋の石標がありました。

この地に埋忠家があったそうです。
因みに、同地には本阿弥家もありました。
「特別展 埋忠 桃山刀剣界の雄」図録によりますと、西陣の古地図を示した上で以下の様な記述が。
『舟橋一帯にひときわ大きな敷地と複数の区画を占めていたのは、貼紙にある「本阿弥」一族であり、そこに埋忠の貼紙は無い。もちろん、貼紙で名前が付される家の方が圧倒的に少なく、これは埋忠家が地図に書き入れるべき家格ではなかったと解するべきである。』
示された古地図には本阿弥の貼紙が多数あり、広大な敷地だった事が分かります。
埋忠と本阿弥の家格、そんなにも違うものだったのですね。。

堀川今出川を少し西に行き、適当な細い道を南にぽこぽこ歩きます。
少し下がった所に上杉景勝屋敷跡がありました。

全然詳しくないのですが、たまにこうして写真に撮る事も。
で帰ってから知ったのですが、「城州埋忠作 文禄二年十二月日」の10筋揃いの重文のあの槍(元は20揃いでしたが戦後米軍に持ち去られ行方不明に)、景勝が自邸に秀吉を招いた際、秀吉から贈られたものだそうです。

Googleアースで距離を測ると西陣舟橋の石標から直線で370メートル。
やぁ色々関係が面白いですねぇ。

そういえば、現在押形出張採拓中の重文太刀は上杉三十五腰の一つです。あの太刀もこの上杉邸に在った事があるのでしょうか。。





グーグルマップ・浄拭

先日、桃川長吉の事でHPからお問合せを頂き、少しやり取りをさせて頂きました。
綾杉肌の無銘に”桃川”の極めを見る事がありますが、そもそも在銘の桃川を見る機会が殆どなく。
「何故に綾杉が桃川?」と思いつつもそれ以上考えた事がありませんでしたが、桃川と月山の関係をご教授頂き初めてその位置関係を地図で見てみる事に。。

地図上で桃川と月山の場所を初めて確認しましたが、この様な位置関係だったのですね。
桃川が月山鍛冶の影響を強く受けている事に納得です。


健康のため、なるべく毎日お散歩をしています。あでも何かと忙しく、”なるべく毎日”です。
近場は飽きましたし、初めての街、初めての路地が楽し過ぎるので車で少し移動しそこから歩く事もしばしば。
グーグルマップで楽しそうな街を選んでからお出掛けし、後は気ままに歩きます。
12月某日、船岡山(建勲神社)近辺から適当に歩き、気付けば西陣の辺り。帰宅後”西陣”の定義を知りましたが、この日の西陣は狭義西陣でした。埋忠さん達はどの辺に居たのでしょう。まだ調べていませんが、おそらく特定されては居ないのでしょうねぇ。(特定されてたらすみません)
近い日には大宮交通公園付近から釈迦谷近辺。また別日には佛大~北野天満宮などを歩いて居ましたが、鷹峯の光悦村がまだで後日。

12月21日夕方、玄琢下に車を停めて光悦村に上って行きます。この日は激寒で体ガチガチ。はたしてこれは体に良いのだろうか。。
適当に歩くのがモットーなので名所旧跡などに立ち寄る事は少ないのですが、刀を研ぐお仕事ですし、流石に光悦寺は素通り出来ません。。
てか光悦村を歩くのだから、内藤直子先生の刀美への寄稿論文を再読してから来るべきだったと後悔。。

本阿弥光悦墓所。
誰も居ない夕方の寒いこの場所で、本阿弥先生、写真の構図が分かりません・・・と独り言をいいながら撮りました。

刀の世界だけで見れば実は光悦はそれ程馴染みはなく、むしろ光瑳や光甫の名にふれることの方が多いですね。

帰宅後、刀美562,563号の「『光悦村の金エーー「光悦町古図」中に見る「埋忠」と「躰阿弥」』(内藤直子)」を読み直しました。
光悦邸の向いに明寿さんの家があったのですね。少し前に西陣や天神川流域を歩いていたおかげで光悦村から西陣の距離感などもよくわかります。
文中に出て来る「三巴亭」も撮った写真の中にありました。

先ほど「特別展 埋忠 桃山刀剣界の雄」の図録で確認したところ、京都市中の埋忠家は西陣舟橋(堀川今出川付近)と特定されているそうです。

光悦寺から西陣方面の眺望。

さて話は少しずれますが・・・。
本阿弥の三事。「鑑定・磨礪・浄拭」です。これすなわち「鑑定・研ぎ・お手入れ」といわれるのですが、「浄拭=お手入れ」が以前から今一納得出来ずです。
本阿弥の三事の浄拭は「お手入れ」と解され、「拭い」と表現される事も多いのですが、この拭いとは、お手入れではなく、今でいう「拭い直し」、つまり研ぎの仕上げ直しの事ではないでしょうか。
当時の刀のお手入れは打ち粉によるもので、長年打ち粉によるお手入れを続けると、刀身表面が打ち粉の影響で曇り、地刃が不鮮明になります。そうなった刀に研ぎの仕上げ工程の一つである「拭い」を施せば、打ち粉のヒケ、鞘ズレ、油染みや変色、小錆程度も除去出来ますし、曇りが晴れ、地刃共に鮮明になります。これ正に浄拭。
当時は現代よりも刀の管理に割く時間は各段に多かったと思いますし、そうそう深く錆びさせる事は無かったでしょう。この浄拭を繰り返しながら大きく研ぎ減らす事なく保存を続けていたのではないでしょうか。
そしてこの考えにより何より納得が行くのが先日のブログの一文。
「古研ぎの差し込み研ぎは何故にあんなに黒いんでしょう。鉄肌よりよほど良く効いています。鉄肌なんでしょうか・・・。」
諸々 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)
明治以前からと思われる古研ぎの刀。やけに拭いが効いているんです。
幾度となくその状態の刀に出会い、研ぎ直しをおこなって来ましたが、その状態を再現できる事はありませんでした。
長年の打ち粉によるお手入れの結果辿り着いた状態だと思っていたのですが、実は打ち粉ではそうは成らないとも感じていて。
しかし、同じ刀に長い年月をかけ繰り返し拭い直しを行えば・・・。
「浄拭=仕上げ直し」と変換すれば、埋忠展図録にある浄拭についての様々な記録にも概ね納得できるように思います。








刀剣展図録の頂点

いつも大変お世話になっている方から正宗十哲展の図録を送って頂きました。
過去にあったでしょうか、掲載刀剣ほぼ全てがカラー全身像、そして全てに全身押形。
もちろん掲載の論文はすばらしく。
掲載刀剣全てに全身押形は、刀剣展図録史上初じゃないでしょうか。
過去あったのかなぁ・・・イヤ無いでしょう。無理でしょう。刀剣博にしか出来ない仕事です。
私が単に押形好きだからではなく、凄い図録です。
是非、写真と押形を合わせてご覧頂きたいと思います。
押形無しの図録とは、こんな凄い情報をすっ飛ばしている図録です。
ましかし実際、刀剣展毎にこんな凄い図録を作るのは無理ですよねぇ・・・。



諸々

年末から拭いがほぼ無くなっていたのですが、擂った物があったはずとのんびりしていて。
いざ探すと無くて、擂る。(メノウの方)
良い事は分かっている鉄肌なので気持ち多めに。

しばらく前に買ったブラジル産の磁鉄鉱結晶は驚く程にダメでした。
ただ、磁鉄鉱の種類によりここまで大きな違いがある事の確認が出来のが成果でしょう。
前から何度も繰り返している事ですが・・・。

刀鍛冶さんから某国産の磁鉄鉱を頂戴し、擂る。(磁製乳鉢の方)
良い結果を祈ります。

古研ぎの差し込み研ぎは何故にあんなに黒いんでしょう。鉄肌よりよほど良く効いています。
鉄肌なんでしょうか・・・。

脇差の茎と輪郭。
研磨や鑑賞では彫物は好みでは無いのですが、押形の時は結構好きです。
華やかで、これだけで気持ちは十分嬉しい。

昨日今日で短刀3口の全身押形を採拓。
1つは結構時間を掛けて、しかしかなり薄い色に。
あと2つは相州伝名作集の様にサリサリと。
実はサリリと描いた物もかなり好きです。

最近茶味の強い墨が好きでそれに切り替えました。
箱に昭和59年製と印字が。墨は古くなると良くなるとも聞きますが、40年、どうなんでしょか。
使い心地は非常に良いです。

末古刀下地。とにかく硬い。
この数ヵ月、古刀の古い所の窓開けを沢山やっていた影響もあるかもですが、にしても硬くて驚く。
砥石を当てずとも手に持つ瞬間硬いと分かる物がありますが、そのタイプです。
若干細身で重ねも薄めですが、ガチガチで反らず曲がらず。
こんなに硬い刀は実は下地の成形は簡単なのですが、前の研ぎが何故かベコベコのボコボコです。