幡枝八幡宮に行きました

3日連続ですが幡枝八幡宮に。やはり石清水が見たくて。
その前に四条烏丸に用事でそれが済んだ後、北山の京都府立京都学・歴彩館で降ろしてもらい、調べ物を。
ここだと神社の資料が沢山あるはずです。でピッタリのがありました。
「幡枝八幡宮社創建千百年記念誌(平成6年発行)」。
色々載っていて、もちろん国広の事も。 
糸巻太刀拵があるはずでその存在がよく分からなかったのですが、太刀拵の写真も掲載され健在のようです。
幡枝国広は現在は京都国立博物館に寄託されていますが、ネット情報では東京国立博物館に寄託されているとするものも多くあります。
記念誌によると、岸本先生が発見するまで御蔵の中で赤錆のまま眠っていたそうで(記念誌では昭和7年頃発見と書かれていますが、岸本先生ご自身は刀剣美術28号(昭和29年)で大正15年2月7日発見と書かれています)、その後、研磨や拵修理の上、東京国立博物館に寄託され、昭和60年頃に京都国立博物館に移されたそうです。

府立京都学歴彩館から北に歩き、岸本先生と同じく深泥池を通り幡枝八幡宮に。

さて、肝心の石清水ですが・・・。
実は十数年前、幡枝八幡さんで神社の方に国広が焼き入れに使った湧き水はどこですか?とたずねたのですが、その時は東方向にあったはずだとお教え頂いていたんです。それでその山の斜面を探していたのですが・・・。(その方面には幡枝古墳群があり、今思うとその事と伝わってしまったようです)

幡枝八幡宮社創建千百年記念誌に、明治期と昭和初期の八幡宮の略図があり、以下の文章も。
「この山の南麓より清水が湧き出て以来、神社の霊水として山上まで汲み上げて使われるとともに~この清水を汲み上げて神前で鍛えた(国広が)太刀は本宮の神宝とされている」
明治の略図に石清水の場所は記されていませんでしたが、昭和の図には幡枝八幡さんの南麓に「石清水」との記載がありました。
実は薄々そうじゃないかと思っていたんです。。
南麓には「幡枝石清水公園」という小さな公園があるんです。そして井戸の様な物も。
これが井戸かどうか、水が湧いているかどうかは未確認ですが(勝手に開ける訳には行きませんし)、この公園が「石清水」の跡で間違いなさそうです。

石清水の場所も住宅地となり若干残念な気持ちもありますが、沢山のちびっ子達が雪がとけてぐじゅぐじゅの中、ドロドロになって遊んでいましたし、国広さんも怒りはしないかも知れない、そんな気持ちで自宅まで歩き、天正打ち国広の押形を眺め、また別の刀の内曇りを引きました。





今日も幡枝八幡に。

夕方、国広が焼き入れを行った石清水を探しに行ってみました。
岸本先生が書かれている幡枝国広発見と國廣大鑒制作時のエピソードが刀美にありますが、それにはこの石清水の写真があります。

急いで歩いても家から4,50分かかるので既に薄暗く。獣の罠があったり。。熊用でしょうか。
今でこそ幡枝八幡宮周辺は閑静な住宅街となっていますが、私が岩倉に来た当時まだこの街は無く、畑や山野でした。
國廣大鑒制作時、岸本先生が幡枝八幡宮に幡枝国広を借りに行くのに「深泥池で自動車を降り小さな峠道を上がって行ったが」と書かれていますので、深泥池から幡枝町への道路自体まだ無かったようです。岩倉はほんとに山奥だったんですねぇ。すみません、土地勘がないと分からない話で。

一応地図を貼っておきます。地図を少し縮小すると南に深泥池が。

多分国広さんが通っていた時からあった木々。
結局石清水は見つからずでした。



幡枝八幡宮

堀川國廣の天正打を研磨させて頂いたので、お散歩で久々に幡枝八幡宮に行ってみました。

重美の幡枝國廣は日刀保京都府支部の支部長を務められた岸本貫之助先生が、大正十五年にこの幡枝八幡宮から発見しました。
(京都御所の東山御文庫で御宸翰を整理していた方から、明和頃の記録で幡枝にて國廣が刀を鍛え奉納したとの記録を見たとの一報があり調査した結果です)

木彫りの狛犬。いい顔してます。
國廣太刀はこの蔵にあったのかと思いましたが、これは神輿蔵だそうです。
それにしても凄い発見ですね。
特に大都会に住む方からは、こんな事はもう無いと思われがちですが、実はまだまだ眠っているのが刀です。
今朝拝見した錆身短刀、古押形に有りそうな予感がして探しましたら、光山押形所収の品でした。




調べ物を

調べ物をしていて夜中になり、外を見たらこんな事になっていました。

毎年恒例の雪写真ですが、今回はちょっと雪多めです。



花器

学校で生け花の授業があったそうで、娘が余ったお花を持って帰ってきました。
以前、加藤静允先生から小さな一輪挿しとそれが掲載されている本を頂戴していて、久々に挿してみました。
こんな小さな花器一つが全ての空気感を変えてしまうんですよね。
そういう研ぎが出来る様になりたいです。



京都府支部新年会

新年会で三木半。

1号 刀 
反る。幅広めで踏ん張る。中鋒。よく詰み、立つ大変良い地鉄。平地鎬地とも同じ肌。
細めに焼き出し、少し行って自然に中直刃に。普段より匂い口の幅が狭く、刃中の働きも少ない。
常にハイレベルだが特にハイレベルな肥前刀。良い刀なので何度か見ていたら古刀に見えて来てしまう。
持つ瞬間3代と感じたが、帽子に少し揺らぎがあり初代と迷う。
近江大掾ではない気がする。結局初,2,3代の決定的根拠を見分けられず。
初代忠吉と入札。

2号 刀
普通に反る。棒樋と連れ樋。腰丁子上で互の目勝ち。ニコイチになり気味。物打下付近から帽子にかけて谷に2筋~3筋の強めの錵筋が目立つ。腰付近は染みる。
全体に映っているが見え難く、腰付近に乱れた映りが幽かに見える。
下半は古く見えるが上は若く見たくなる。がこの映りは自然で・・・。
刃文も鍛えも姿も全てが違うが何も思いつかないので、直胤と入札。

3号 刀
細身、反り浅め。低く硬い互の目を規則的に。刀匠彫りの龍。
肌を強調しない研ぎなのと、古研ぎでヒケ多数のため最初見えなかったが、光に透かすと綾杉が見えた。
この細さは貞勝だと思うが普段見る貞勝は太刀姿の印象が強く、貞勝と書けず。明治貞一の印象とも違うが明治を取り。。
月山貞一と入札。

4号 脇差
幅広、反る。中鋒。強く非常に良い地鉄。互の目(丁子)で打ち寄せ合う箇所複数。
大阪新刀だと思う。大変良い脇差。横手下に3個揃いの互の目風が確認出来る。庵の高さ尋常。
何を優先するかで決まると思うが、切っ先形状がこの人だと思う。
言之進照包と入札。

5号 短刀(脇差?)
細めの冠落とし。少し反る。肌物で全体に大板目、鎬の流れ強い。低めで延びる互の目、眼鏡多数。腰は眼鏡が裂けて斜めに尖る。
これはなんでしょか・・・。思考停止。。
止まるといつも書いてしまう。貝三原正興と入札。


時代違いイヤ


イヤ

2号 直胤イヤは次に何もつながらない痛い札。
上半のニコイチ互の目と谷の働きがどうしても気になり次の発想が出ず。
これも違うのだが、それでも同時代備前物との鑑別が容易な師景にとりあえず入札。

5号 違うのだがあり得なくはないと思い、藤島と入札。


国入


イヤ

2号 古刀備前でした。となるとこれという事になるはず。祐光と入札。
5号 単に研師をやっている程度では美濃物の幅広さの理解はできん訳です。もっと数を見てちゃんと向き合わないと。
兼吉と入札。


国入


当同然

1号  刀 肥前国住陸奥守忠吉
2号 太刀 備州長船祐光
      永享八年二月日
3号  刀 大阪住月山源貞勝謹作(花押)
      大正九年十一月吉日
4号 脇差 越後守包貞
5号 短刀 兼白(かねきよ)

1号は持つ時3代と感じたので、初23判別はその感覚が正しいのかも。
でもこんな地鉄に仕上げた初代も見た事があり、研ぎ次第か。
3号、大正の貞勝は初めて見た。だからこの姿なのかも。





大和なる玉置の宮の弓神楽

また拵の事ですが。
小柄は赤銅独楽図です。魚子は手擦れでトロトロに。
天正拵は三所などに揃えずバラバラが本来だという話や、やはり古後藤で揃えてこそだとか、図柄で揃えるべき、或いは技法で揃えるべき(例えば小柄笄をうっとりで揃えるなど)等々、色々聞きますが、結局のところ予算次第で。。あぁ言ってしまった。
そりゃぁ誰しも古後藤で揃えたい訳ですよ。。
でも幸い私は西円堂が好きなので、庶民の天正拵でいんです。

小刀には「大和なる 玉置の宮の 弓神楽 弦音すれば 悪魔退く」の上の句が切られています。
これは私のルーツである玉置神社に伝わる歌ですが、数年前にいつも大変お世話になっている方から頂戴しました。
当初小柄には煤竹の継を入れていましたが、この小刀を頂戴し早速差し替え。
拵えの中身、刀身自体は一桁万円の安刀ですが愛着満載。
そしてこの小刀のおかげで、この刀のお守り刀としての意味がこれ以上ない物になりました。



拵え完成

拵えがほぼ完成しました。(下げ緒がまだで、今は棚に入っていた適当な物を巻いています)
鞘長約73㎝、柄長約21センチ。
天正拵が欲しく、一生に一本と思い刀装具探しを始め、それから何年かかったでしょう。。8年7年でしょうか。
一旦拵が完成し、その後もっと好きな笄が見つかってしまい差し替えたので、鞘の笄櫃に笄が完全には合っていませんが、それでも構わないと思える好きな笄で。(好き過ぎて何年も前からずっとスマホの待ち受けになっています)
拵一旦完成後、一番好きな厳島西蓮拵に寄せたくなり・・・。2年ほど我慢していましたがやはりどうしても我慢出来ず再度柄製作に。
それから2年半ほど掛かりましたがついに巻き上がりです。
その前に、あえて1,5ミリと厚く作った金着切羽の色がうるさくなり厚い赤銅切羽に作り替えていたのですが、次はセオリーを無視した厚い切羽が嫌になり、古い拵に見る薄い切羽が欲しくなり。20代の頃憧れた金着厚切羽(厚赤銅も)を捨て、地味な0,5ミリ赤銅切羽に作り替え。
最初の巻の時、サンプルに渡していた柄革写真の色に合うようにあえて赤銅でなく山銅の目貫を探し揃えたのですが、柄革の染は簡単ではないそうで思った色で上がって来ず、結果山銅目貫の色と合わず。鮫も天正の黒鮫が苦手で桃山拵の朱鮫にしていましたが、それとも合わずで。
理想の柄革色が難しいそうなので、赤銅のこんもりした古い目貫を入手しそれをお渡しし、最初の柄は鞘長比標準の24㎝でしたが、西蓮拵の20,3に近づけるべく21㎝で作って頂きました。(西蓮拵通りの20,3㎝もかなり考えたのですが、冒険が過ぎるので少し大人しく21㎝に)
今のシトドメは「金黒金」ですが、多分今後全部黒が好きになりそうで「黒黒黒」に作り直すことになるかもです。
にしても好きな姿の拵にするために一番重要なのは、刀その物の姿ですね。しかしそう都合よく理想の姿の刀はありません。
鞘師さんはその極限を衝いてかっこいい拵を作ってくれるのです。鞘師万歳。
今回の拵が完成に至るのに一番重要だったのは、刀身でも笄でも柄長でもなく、縁金具の存在です。
筋違鑢の赤銅着天正縁。地味ながら味わい深い赤銅色で、縦径に加え、側面のこんもり感が絶妙。
刃方棟方の角度も理想の極致。
この縁はいつもお世話になっている方から頂戴した物ですが、この縁が無ければ何も始まらず、今この完成はありません。
本当にありがとうございました。
一生に一つと思っていた拵、またもう一つ頑張って見ようと思い始めていますが、この縁を超える品に出会える気がしないです。。













そして差し込みの続き

久々に金属乳鉢を購入しました。
絶妙に丁度いい大きさ。
何よりフタが嬉しいです。

こういう粒や粗い鉄肌を砕く時、袋に入れて金床上で叩いたり、一手間掛かり面倒なのですが、金属乳鉢と乳棒でしかもフタ付きなので完璧です。
フタをした状態で乳棒でガシガシ叩いて砕きます。
夢中で狂い叩いていたので写真を撮り忘れましたが、かなり硬い粒でした。
前回の粒は多分人工的に作った物じゃぁなかろうかと。数百円の物をわざわざ手間掛けて作るかね?!とも思いますが、世の中色々あるわけですねぇ。

この後陶製に変えてさらによく擂ります。