直江助信・助俊

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脇差、銘 奉命 直江助俊 同 助信謹造(石切劔箭神社蔵)
慶応元年八月日

34回目。前回に続き、石切劔箭神社様の御刀です。
水戸藩九代藩主徳川斉昭は刀を鍛えた事でも知られ、その作品の茎には葵紋崩の紋章を刻みます。
藩主斉昭の作刀の相手鍛冶を務めたのは直江助政、助共親子で、今回の押形はその助共の子、助信、助俊兄弟の合作刀です。
水戸藩では尚武の気風から刀の実用性への関心が高く、棒試し、巻藁試し、鹿角試し、水試し等の荒試しに耐えた刀を藩士達の指料としたと伝えます。
本脇差は身幅広く、重ね厚く、平肉豊な造り込みで(重量は395g)、正にその想いを形にした作品となっています。

石切劔箭神社HP



横山祐包

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刀、銘 備州長船住横山祐包(石切劔箭神社蔵)
明治三年八月日

33回目は新々刀備前、横山祐包。
祐包は祐永と並び、新々刀期の備前を代表する刀工です。
一時は衰退した備前鍛冶も幕末期には再び隆盛し、一派独特の丁子を焼く祐包の作品も数多く造られました。

本刀は「いしきりさん」として親しまれ厚い信仰を集める石切劔箭神社の蔵刀で、同社には多くの奉納刀が残されています。
新々刀らしく精緻な地鉄に完璧で破綻の無い刃を焼き、祐包の技量の高さが伺える作品です。
祐包には銘に「友成五十八代孫」と切り添える物をみますがその一行から、平安期古備前刀工群より続く備前刀工の誇りと気炎を感じます。

石切劔箭神社HP



大磨上げ無銘刀

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刀、無銘(極銘有)

32回。
茎には古い時代の極め銘がありますが、現代の鑑定では違う見方が適当かと思われますので茎は伏せさせて頂きます。
大磨上げで身幅やや広く、鎬高く、切っ先が少し詰まる造り込み。
押形だけでは伝わり難いところですが、手にすると非常に力強さを感じる姿です。
鎌倉末期頃の千手院、或いは当麻でしょうか。大変魅力のある刀ですので全身押形を採拓させて頂きました。



古備前正恒

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太刀、銘 正恒(古備前)

31回目は古備前正恒、生茎在銘の太刀です。
正恒は友成と並び古備前派を代表する刀工で、古備前派の中でも特に鍛えが優れる刀工の一人です。
押形の正恒も、板目に杢が交じりよく詰む定評通りの地鉄で、映りも鮮明に現れています。
刃文は古備前派としてはかなり華やかな出来となり、ここにも正恒の見所が示されています。
数少ない正恒生茎の太刀であり、出来、保存状態ともに完璧な名刀中の名刀です。

この全身押形は久々に少し八の字配置で採拓しましたが、この方が安定感のある印象になりますね。



古備前宗安

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太刀、銘 備前國宗安作 (大阪歴史博物館蔵)

30回。古備前派、宗安。
この太刀は、大阪歴史博物館館蔵品修復事業に於いて研磨をさせて頂いたものです。

同派を代表する刀工に友成と正恒がいますが、宗安は友成の弟或いは子とも伝えられています。
古備前らしく整う地鉄、きめ細かに小錵た明るい刃、そして注目すべきは刀身中央付近から切っ先へと明瞭な二重刃となっている点です。
二重刃は粟田口や延寿派などに見られる特徴ですが、古備前派の作品を通観すると(といっても図譜等での事ですが)、二重刃がかる作品が少ないながらも存在する事が確認できます。

大阪歴史博物館



粟田口則国

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短刀、無銘 粟田口則国(附本阿弥光忠折紙)

29回目になりました。山城物、粟田口です。
則国は粟田口六兄弟の長兄である国友の子で国吉の父といわれ、時代は鎌倉前期です。
現在「短刀」と称される形状の刀は平安時代末期頃には既に存在したはずですが、その多くは実用に供し消耗したと考えられており、当時の作品は三条宗近や豊後行平などに僅かに残るのみです。
しかしその次代に現れる粟田口派には短刀が多数残されており、鎌倉中期から後期には短刀の名手国吉と吉光を輩出しています。
本短刀は鎌倉時代前期の粟田口則国の作と極められ、刃長は八寸三分。内反りでやや厚い重ね。
全ての線と面が端正で、刃文、地鉄と合わせ、尋常ならざる名刀感を醸す短刀です。



一竿子忠綱

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刀、銘 粟田口近江守忠綱 彫同作
    寳永五年八月日

28回目は大坂新刀。
粟田口近江守忠綱二代目、一竿子忠綱です。
一竿子の乱れ刃は丁子や涛乱風などありますが、押形の刃文は互の目に湾れと後者の典型で、彫り物の配置を意識した焼き刃バランスとなっています。
一竿子の作品には三尺を超える物もありますが(重文三尺一分、重刀三尺七寸一分)、二尺~二尺二寸ほどの短い物も多く、本刀も二尺一寸ほど。
大坂新刀としてはかなり反りの高い姿で、小ぶりながら迫力のある作品です。
因みにこの刀は薄錆身で発見された品ですが発見当時彫物は固着した打ち粉と油で埋まった状態でした。
多くの場合、固着した油が酸化し発錆原因となる訳ですが、今回は幸いそれが保護膜となり錆を防ぎ、彫物が守られました。



陸奥守忠吉

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刀、銘 肥前国住陸奥守忠吉

27回目。唐突に肥前に戻ります。8回目と同じく忠吉家三代目、陸奥守忠吉。
全身押形のよいところをあげるとしたら、まず姿を把握しやすい点があげられるでしょう。
私、近年は切っ先と茎尻を同じ幅で押形採拓を行っていますが、それにより姿の把握がしやすくなります。
実際に刀を見て、腰、中程、先と、どの位置の反りが一番強いか、その刀が”何反り”かを掴むことは案外難しいものです。
しかし全身の表裏を描いた全身押形を見れば、反りを容易に把握できます。
今ブログでUPさせて頂いて居る押形でいうと、17回の龍門長吉は少し反りは浅いが腰反り、1回目の則縄は腰反りだが先まで力強く反る、7回目の近江大掾は反りは浅いが腰付近が反っています。
そして今回の陸奥守忠吉。7回目の近江大掾とは全く違い、輪反りに近くそして深い反りです。
全体に淡く映りがあり、刃中には金筋が入り、帽子も普段の肥前刀とは違い、総体に古い雰囲気を感じます。
肥前刀には度々古作の写しをみますが、この陸奥守忠吉も何か古作を狙った作なのかも知れません。



三善長道

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脇差、銘 陸奥大掾三善長道
     延宝五年二月日(敷地神社蔵)

26回目。前回に続き敷地神社(わら天神)様の蔵刀です。
長道の祖父長国は元伊予松山藩の刀工で、藩主加藤嘉明が会津に移封となりそれに伴従しました。以後三善家は会津の地で繁栄し新々刀期まで作刀を続けています。
初代長道の刀は卓抜の切れ味を誇り、江戸時代後期には業物位列に於いて最上大業物に選定されます。同じく最上大業物である長曽祢虎徹に作風が似ることから「会津の虎徹」ともいわれ、会津新刀を代表する名工です。

敷地神社(わら天神宮)HP