柴田果の肥前刀観

柴田果のコレクションは壮大でその数は数千ともいわれるそうですが、一般愛刀家でなく刀の製作者である人物のコレクションとはどのような物だったのでしょうか。先日読んでいた本に晩年と思われる自筆の蔵刀目録がある事が記されておりその一部があげられていました。古刀から新刀までかなりの範囲を網羅しており、普通と言えば普通。。ただやはり刀工名を見ただけでは分かりません、実際の刀を見てみなければ。どのような作風の刀達だったのでしょう。
集める範囲は広かったようですが、とりわけ肥前刀への関心は高く、刀剣美術第10,12,13号(昭和26年)に「刀匠は斯う考へる」として自身の肥前刀観を吐露しています。その書き出しはストレートで「私は肥前刀が好きである」から始まります。
「第一に品が良い。垢ぬけがして、すべてに無理がない。刃味がよい。自由に焼刃を渡している。それでいて、これ見よと言うような衒気がない。まことに精品という感じである。其上に、刀匠は幾代も上手が続いている。」
肥前刀の良さを端的に表した一文です。続けてこう書かれていました。
「次に最も重要なことは、製作されている数量もまた相当に多い。そして、作品に例外というものは餘りない。この事も私の好きな理由の一つである・・・・・・というて、此例外なしと言うことは、精良なナイフ工場が作るナイフの如く画一的のものと言う意味ではない」

肥前刀の作刀数はかなりの数にのぼり、特に近江大掾などは刀剣史上突出しているはずです。研磨や入札鑑定で出会う事も非常に多くその多さを常に感じる中で、「精良なナイフ工場が作るナイフの如く画一的のもの」という気持ちが私の中に生まれていました。
この感覚は改める必要がありますね。改めるといっても「変える」という意味では無く「正しいかどうか詳しく調べて確かめる」方の意味です。もちろん、心の中で柴田果の見方が間違っていると思っているのではなく、私の方が間違っていた、考察が足りないと思っているのですが、まだ実感出来ていないのです。
少し先になりますがちょうど近江大掾のしっかりした造り込みの刀の研磨を予定しています。押形をとりながらじっくり考えてみたいと思います。






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