京都府支部刀剣入札鑑定

2月は本部からでした。
本部からの鑑定刀について「答えをSNS等で明かさないで下さい」という内容の通達が支部宛てに来ていますので、しばらく前から本部からの鑑定刀に関しては、ここでも答えを明かさないようにしています。
という事で簡単な所感や結果を。

1号 太刀
細身で反り高く、陰の造り込み。
直刃調に小乱れ小互の目で、時代の古い太刀。
過去に見た太刀だと思う。
(先ほど確認しましたら2008年と9年に見ていました)

2号 刀
反り浅く中鋒。よく詰む肌に、浅い湾れ基調に互の目、小互の目。

3号 短刀
身幅広く反り浅く付く。板目に刃寄り柾。互の目湾れ。
誌上鑑定で見る短刀だと思う。

4号 刀
平肉付かず、反り頃合い。よく詰み地錵厚い。大互の目乱れ。

5号 太刀
重ね厚く反り付き長寸。詰み気味の地鉄に乱れ映り立つ。小互の目連れて錵付く。
これも昔見た刀のはず。(これも先ほど確認したら2008年に見ていました)





1号銘の重文太刀を最近拝見した所でした。
地鉄や沸え付きなど、全く違うタイプ。
3号はいつもの刀をそのまま切り取った様な出来。同じ刀工の作品でも刀と短刀では多少違うものが多いと思うが、ここまで同じなのは非常に面白い現象。



九州物

九州物の短刀の地艶。
鉄が柔らかすぎてヒケに苦しむ。
また今使っている拭いが少々粗目に作っている加減もありヒケ気味で。
拭いでヒケるなんてちょっと素人っぽい話ですが・・・。
九州物らしい九州物というやつは九州然とした白け方の地鉄で美濃の質とは全く違うものです。
しかし刃の冴えはしっかりとある物も多く、不思議な刀。
九州物は実は研ぎ栄えする刀です。研ぎの仕上がり次第でその上下の差が激しい刀。



押形制作

今日は全身押形制作の取材をして頂きました。
どの程度使って頂けるかは不明ですが、押形制作関連の取材の機会は少ないですし、大変ありがたい事です。



古押形

錆び切りをしていた短刀が私見で相州上工なので古押形にないかと検索中、埋忠刀譜に先日の額銘二字国俊(重要文化財)をみつけました。

この額銘国俊は刀美の名刀鑑賞に過去3度掲載された名品で、徳川将軍家、会津松平家、一橋徳川家などを経て、近年では中曽根康弘元首相の所有であった刀です。
現在の茎は、目釘穴三(内二つ鉄埋め)の状態ですが、埋忠刀譜では現在あいている一番上と真ん中の埋め穴が無く、一番下の埋め穴部が一つだけあいた状態。
念のため埋忠銘鑑を確認するとやはりこの刀の掲載はありますが埋忠刀譜とは状態が少し違い、現在あいている一番上の穴は無く、鉄埋めの二つがあいた状態の押形です。
埋忠刀譜は埋忠家の注文台帳的な意味合いが強く、単なる押形集とは違った性質を持ちます。故に埋忠刀譜に所載という事は、埋忠家がこの国俊に仕事として何らかの形で関わったものと考えられるのです。
ただその仕事内容は、拵金具製作、拵製作、磨上げ、金象嵌、額銘入れ、銘の折り返し、刀身彫刻、刀剣の購入や売却に仲介等々と多岐にわたり、埋忠家がどの様に関わったかは分かりません。

この刀、磨上げや額銘の仕事は丁寧であり、普通に考えれば埋忠家がこの刀に行った仕事は磨上げと額銘です。
ただ、台帳(埋忠刀譜)の記録は仕事の前と後ではなく、どちらか一方のみ。
仕事の後に記録したとすれば、磨上げと額銘などが考えられますが、仕事前の記録とすれば、既に額銘がある状態から現在の茎へとさらに磨上げたということに。
埋忠刀譜の本文翻刻をみると幾つかの押形に、仕事の後に記録したと分かる内容もあり、「兼光の目釘穴を銀で埋めた」「藤四郎吉光の目釘穴を印子(金)で埋めた」「藤四郎吉光の目釘穴を鉛で埋めた」例が記されています。(藤四郎を鉛で埋める事に驚きですが)
また蜂屋江や桑名江は明寿が磨上げ、金象嵌も明寿が行った事などが記されていました。
しかし仕事内容の記載が無い押形が圧倒的に多く、埋忠家がその刀にどの様に関わったかを断定する事は難しそうです。

この二字国俊の他、手元にある全身押形には古押形(含明治)に記録されたものが幾つかあり、ここに掲載させて頂きます。

稲葉江(国宝) 埋忠刀譜
備州長船兼光(重要美術品) 土屋押形(中央刀剣会本)
長光 土屋押形(中央刀剣会本・刀剣銘字大鑑)
桃川住長吉(重要美術品) 土屋押形(刀剣銘字大鑑)
備州長船義光 興国六年酉乙三月日
土屋押形(刀剣銘字大鑑)
古刀真影 
助包(古一文字)(重要文化財) 光山押形
近信(古備前) 光山押形
恒遠(古備前) 光山押形
景安(古備前) 光山押形
景秀(長船) 光山押形
国永(五条)(重要美術品) 光山押形
国吉(粟田口)光山押形
定利(綾小路)光山押形
備後国住一乗作
 応永十八年八月日
(福山市重要文化財)光山押形
国綱(粟田口) 今村押形
(菊紋)一(重要美術品) 今村押形

その他で把握しているものは光徳刀絵図の義元左文字(重要文化財)と骨喰藤四郎(重要文化財)などでしょうか。
探せば他にも見つかるのかも知れません。



刀職

白銀師の中田育男先生の工房にて中田晃司白銀師。
中田晃司師は普段は神戸の工房でお仕事をされていますが、この日は都合で加東市の育男先生の工房に。

今日は倉敷市児島の石崎三郎鞘師の工房に完成した太刀を受け取りに伺いました。

刀職の仕事場は何とも言えず心地よく不思議な感覚になります。
研師の仕事場にお邪魔してもこの感覚を覚える事はありませんので、同じ刀職でもまた別職だからなのでしょうか。

今、刀職者が不足していると感じているのは私だけではないはずです。
中田育男白銀師、中田晃司白銀師、石崎三郎鞘師の様な名人といわれる職人が増える事を切に願っています。



日刀保京都府支部入札鑑定・新年会

1月は新年会なのでいつもの三木半旅館で。
三木半は笑福亭鶴瓶さんや、あのねのねさんがバイトをしていた旅館です。

1号 刀
肥前。長い。二尺五寸超か。反り浅めで身幅広い。重ねは身幅に比して若干薄め。詰み過ぎない地肌。大互の目を直ぐ調につなぐ。錵が凝る箇所が点在。
茎が細らない嫡流にはこの様な大きな物があると思うが、正広・行広の方がこの造り込みは多いと思う。が、正広・行広の判別法は分からず。
河内守正広と入札。

2号 刀
反り浅。焼き幅広く、刃中の錵方が著しい。互の目と丁子で刃中複雑。帽子は綺麗。返り少し広く少し長い。
沸え深さが親国。しかしいつもと違う気がして迷う。思い切って変わった札を入れたくなってしまった。
御勝山永貞と入札。

3号 刀
少々反る。よく詰む肌だが詰み過ぎず良い鍛え。焼き出し長く、それほど高くない完全匂いの丁子。少し風変りな刃調。
ちょっと迷い、何度も見ていたら風変りには見えなくなった。
この反り方や焼き出しと、特に良い鍛えなのでこの人か。
横山祐永と入札。

4号 平脇差
江戸か大阪の新々刀丁子。入札が苦手な刀です。。
寸延。身幅広く重ね厚い。非常によく詰む地鉄。淡く映り。頭が完全に揃う丁子。ニコイチ、ニコニコなど。足は長くない。
ちょっといい加減にこの辺を整理して覚えよう。
同然表を見て適当に。加藤綱英と入札。

5号 平脇差(短刀か)
寸長め。それなりに反る。詰み気味の板目肌で流れる。棟寄り映る。表裏揃い気味の互の目。藤島風のピョコ刃を素直な匂い口で。千子の刃調。
大振りなので。
千子正重と入札。


イヤ


イヤ

2号 でしょうねw 親国と入札。
5号 当たりと思ったので驚いた。平安城らしくはないけれど、これしか無い。平安城長吉と入札。





イヤ

5号 美濃しかないですね。個銘は分からず。蜂屋兼貞ってこんな刃文はないのでしょうか。兼貞と入札。





1号  刀 一 肥前国出羽守行廣 以阿蘭陀鍛作
2号  刀 和泉守国貞(道和銘)
3号  刀 横山加賀介藤原祐永 天保十四年八月日 
     (菊紋)一 備陽長船郷
4号 脇差 備前介宗次
      弘化四年十月日
5号 脇差 関之住兼舟

2号は親国貞の草書銘で所謂「道和銘」。そのせいで少し作風が違っているという事かも。
4号は辻本先生曰く、この帽子は固山しか無いとの事。
次回からは、とりあえず丁子の新々で映りが有れば固山に入れよう(そんなんじゃダメですか。。)。そういえば宗次って研磨の経験が無いかもしれない。宗寛はあったと思う。
5号は1札目で美濃に行かれている方が何人か。
何故美濃に?と聞きましたら「千子だともう少し地鉄が強い」と。ん~確かに。でもかなりハイレベルな鑑識。
あの刃に引っ張られると必ず千子に行ってしまう。地鉄の差に気付くにはかなり冷静な判断が要ります。
・判者さんから、正重と長吉は同然なのでと、5号に+5点いただきました。





力のある拭い

今回は過去一番に力の有る拭いが出来ました。
加減をしなければ濃く入り過ぎます。
鉄肌100%。20代の頃に初めて出会い、ずっと理想としてきた物です。
出来た物は過去最良なのですが、原因が分からずです。




晴明神社

西陣舟橋の直ぐ南、晴明町には「晴明神社」があります。
古い資料によると創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったそうです。地図で確認すると、この面積は今の二条城の半分近くあり、本当に広大な敷地です。

2023年の晴明神社様の修復事業に於いて、ご所蔵の刀、長船祐定の研磨をさせて頂きました。
写真は本能寺様での押形展示の様子です。
重ねが厚く大変健全な祐定です。
ご由緒|晴明神社 (seimeijinja.jp)



西陣舟橋

せっかくなので行ってみました。
雪もちらつき、今年で一番寒かったかもです。。

西陣舟橋の石標がありました。

この地に埋忠家があったそうです。
因みに、同地には本阿弥家もありました。
「特別展 埋忠 桃山刀剣界の雄」図録によりますと、西陣の古地図を示した上で以下の様な記述が。
『舟橋一帯にひときわ大きな敷地と複数の区画を占めていたのは、貼紙にある「本阿弥」一族であり、そこに埋忠の貼紙は無い。もちろん、貼紙で名前が付される家の方が圧倒的に少なく、これは埋忠家が地図に書き入れるべき家格ではなかったと解するべきである。』
示された古地図には本阿弥の貼紙が多数あり、広大な敷地だった事が分かります。
埋忠と本阿弥の家格、そんなにも違うものだったのですね。。

堀川今出川を少し西に行き、適当な細い道を南にぽこぽこ歩きます。
少し下がった所に上杉景勝屋敷跡がありました。

全然詳しくないのですが、たまにこうして写真に撮る事も。
で帰ってから知ったのですが、「城州埋忠作 文禄二年十二月日」の10筋揃いの重文のあの槍(元は20揃いでしたが戦後米軍に持ち去られ行方不明に)、景勝が自邸に秀吉を招いた際、秀吉から贈られたものだそうです。

Googleアースで距離を測ると西陣舟橋の石標から直線で370メートル。
やぁ色々関係が面白いですねぇ。

そういえば、現在押形出張採拓中の重文太刀は上杉三十五腰の一つです。あの太刀もこの上杉邸に在った事があるのでしょうか。。





グーグルマップ・浄拭

先日、桃川長吉の事でHPからお問合せを頂き、少しやり取りをさせて頂きました。
綾杉肌の無銘に”桃川”の極めを見る事がありますが、そもそも在銘の桃川を見る機会が殆どなく。
「何故に綾杉が桃川?」と思いつつもそれ以上考えた事がありませんでしたが、桃川と月山の関係をご教授頂き初めてその位置関係を地図で見てみる事に。。

地図上で桃川と月山の場所を初めて確認しましたが、この様な位置関係だったのですね。
桃川が月山鍛冶の影響を強く受けている事に納得です。


健康のため、なるべく毎日お散歩をしています。あでも何かと忙しく、”なるべく毎日”です。
近場は飽きましたし、初めての街、初めての路地が楽し過ぎるので車で少し移動しそこから歩く事もしばしば。
グーグルマップで楽しそうな街を選んでからお出掛けし、後は気ままに歩きます。
12月某日、船岡山(建勲神社)近辺から適当に歩き、気付けば西陣の辺り。帰宅後”西陣”の定義を知りましたが、この日の西陣は狭義西陣でした。埋忠さん達はどの辺に居たのでしょう。まだ調べていませんが、おそらく特定されては居ないのでしょうねぇ。(特定されてたらすみません)
近い日には大宮交通公園付近から釈迦谷近辺。また別日には佛大~北野天満宮などを歩いて居ましたが、鷹峯の光悦村がまだで後日。

12月21日夕方、玄琢下に車を停めて光悦村に上って行きます。この日は激寒で体ガチガチ。はたしてこれは体に良いのだろうか。。
適当に歩くのがモットーなので名所旧跡などに立ち寄る事は少ないのですが、刀を研ぐお仕事ですし、流石に光悦寺は素通り出来ません。。
てか光悦村を歩くのだから、内藤直子先生の刀美への寄稿論文を再読してから来るべきだったと後悔。。

本阿弥光悦墓所。
誰も居ない夕方の寒いこの場所で、本阿弥先生、写真の構図が分かりません・・・と独り言をいいながら撮りました。

刀の世界だけで見れば実は光悦はそれ程馴染みはなく、むしろ光瑳や光甫の名にふれることの方が多いですね。

帰宅後、刀美562,563号の「『光悦村の金エーー「光悦町古図」中に見る「埋忠」と「躰阿弥」』(内藤直子)」を読み直しました。
光悦邸の向いに明寿さんの家があったのですね。少し前に西陣や天神川流域を歩いていたおかげで光悦村から西陣の距離感などもよくわかります。
文中に出て来る「三巴亭」も撮った写真の中にありました。

先ほど「特別展 埋忠 桃山刀剣界の雄」の図録で確認したところ、京都市中の埋忠家は西陣舟橋(堀川今出川付近)と特定されているそうです。

光悦寺から西陣方面の眺望。

さて話は少しずれますが・・・。
本阿弥の三事。「鑑定・磨礪・浄拭」です。これすなわち「鑑定・研ぎ・お手入れ」といわれるのですが、「浄拭=お手入れ」が以前から今一納得出来ずです。
本阿弥の三事の浄拭は「お手入れ」と解され、「拭い」と表現される事も多いのですが、この拭いとは、お手入れではなく、今でいう「拭い直し」、つまり研ぎの仕上げ直しの事ではないでしょうか。
当時の刀のお手入れは打ち粉によるもので、長年打ち粉によるお手入れを続けると、刀身表面が打ち粉の影響で曇り、地刃が不鮮明になります。そうなった刀に研ぎの仕上げ工程の一つである「拭い」を施せば、打ち粉のヒケ、鞘ズレ、油染みや変色、小錆程度も除去出来ますし、曇りが晴れ、地刃共に鮮明になります。これ正に浄拭。
当時は現代よりも刀の管理に割く時間は各段に多かったと思いますし、そうそう深く錆びさせる事は無かったでしょう。この浄拭を繰り返しながら大きく研ぎ減らす事なく保存を続けていたのではないでしょうか。
そしてこの考えにより何より納得が行くのが先日のブログの一文。
「古研ぎの差し込み研ぎは何故にあんなに黒いんでしょう。鉄肌よりよほど良く効いています。鉄肌なんでしょうか・・・。」
諸々 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)
明治以前からと思われる古研ぎの刀。やけに拭いが効いているんです。
幾度となくその状態の刀に出会い、研ぎ直しをおこなって来ましたが、その状態を再現できる事はありませんでした。
長年の打ち粉によるお手入れの結果辿り着いた状態だと思っていたのですが、実は打ち粉ではそうは成らないとも感じていて。
しかし、同じ刀に長い年月をかけ繰り返し拭い直しを行えば・・・。
「浄拭=仕上げ直し」と変換すれば、埋忠展図録にある浄拭についての様々な記録にも概ね納得できるように思います。