写し物

短刀 銘 播州住隼光作  
     平成二十四年盛夏 

桔梗隼光刀匠の景光を狙った短刀です。
映りが見事に再現されており、第7回お守り刀展覧会に於いて特賞のテレビせとうち賞を受賞された作品です。

短刀  銘 法廣 
      平成二十一年鮎季 

宮入法廣刀匠の景光を狙った作品です。
この作品の翌年、平成22年新作名刀展に於いて、同じく景光を狙った片落ち互の目の短刀で正宗賞を受賞されています。


短刀 銘 元亨三年二月日 以余光鉄 備州長船住景光
     鍋島景光ニ倣ㇷ 源貞次 紀元二千六百一年八月日 彫同作(花押)
    (棟)為井内彦四郎氏作之

鍋島家に伝わった景光の短刀に倣い、高橋貞次が作刀したものです。
片切刃短刀で、表 樋中に素剣の浮彫、裏 孕龍。
この造りは、貞次が倣った景光元亨三年(重美)の八年前、来国俊正和四年の短刀(重美)にも見られます。
来国俊の彫りが後彫りでなければ、景光は来国俊の作に倣ったのかも知れません。(大本となる作は海老名小鍛治宗近と考えられるようです)
また、少し寸は延びますが肥前忠吉にも同作があり、特別重要刀剣に指定されています。
貞次作の本短刀は、紀元二千六百一年(1941年)の作刀年紀がありますが、鍋島家に伝わった重美の景光短刀は1940年、靖国神社遊就館で開催された「紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会」に出陳されています。そこで景光短刀を見て影響を受けたのか、または棟銘にある注文者、井内彦四郎が遊就館で見て注文をしたものか、興味は尽きません。

太刀 銘 加賀国住正峯 於傘笠亭作之 思飛鎌倉期 漂一文字上
     昭和丙午年二月

隅谷正峯の、御物 道誉一文字写しです。
目釘穴が二つ、茎尻にも目釘穴の痕跡がありますが、道誉一文字と同じ状態を再現しています。
道誉一文字 | 日本刀や刀剣の買取なら専門店つるぎの屋 (tsuruginoya.net)

脇差 銘 加賀国住両山子正峯作
     昭和戌申二月吉日

隅谷正峯の南北朝期の青江に倣う作品です。
隅谷作品は備前の一文字を狙った隅谷丁子で有名ですが、平造りの物では多くの逆丁子作品を残しています。
茎形状などからも青江次直あたりをお手本とした事がうかがえます。

太刀 銘 包永
     兵部大輔藤孝磨上之異名号児手柏 天正二年三月十三日
  (棟)大和国住月山貞利謹作(花押) 平成二寿久年五月吉日
                (公益財団法人 徳川ミュージアム蔵)

月山貞利刀匠の児手柏包永写しです。
享保名物「児手柏包永」は大正十二年の関東大震災で被災しました。各刀剣書にもその事が記されていますが「焼失」と書かれる事が多く、刀剣界では現品は残っていないと認識していた方が多いと思います(私もです)。
しかし近年、焼け身の状態で茨城県水戸市の公益財団法人徳川ミュージアムに保管されている事が判明、徳川ミュージアムでの展示や、佐野美術館の「REBORN 蘇る名刀」に出陳、広く知られる事となりました。
以前は錆身や焼け身が展示される機会は稀でした。しかし観る人の価値観は多様です。既存の価値観にとらわれず、刀の歩んできた歴史を知り、様々な価値を探り見出す取り組みとして「REBORN 蘇る名刀」は素晴らしい展示だったと思います。

徳川ミュージアムでは「刀剣プロジェクト」として、児手柏包永写し(月山貞利刀匠が担当)、そして同じく被災した燭台切光忠の写し(宮入法廣刀匠が担当)を制作。
「児手柏」とは表裏の刃文が著しく違う事から名付けられた異名ですが、焼け身となった今、その刃文を知るすべは明治の鑑定家今村長賀が残した全身押形のみ。今回の再現刀はこの長賀の全身押形を元に制作されました。

大和物らしく流れ肌を見せつつ、奥行きがあり強く美しい手掻派の地鉄をこしらえ、長賀の押形の通り佩表は大きく乱れ、裏は直ぐ調の刃が焼かれ、児手柏包永が見事に再現されています。私はこの児手柏写しの研磨を担当させて頂きその時全身押形も採拓していましたが、この再現プロジェクトからも刀剣の今を全身押形として記録に残す事の重要性を強く感じる事となりました。
 公益財団法人 徳川ミュージアム

太刀 大野義光刀匠の山鳥毛写し。
銘が切られる前に全身押形を採拓しましたので採拓時は無銘です。
焼き出し部の特徴的な刃文もよく再現されています。山鳥毛よりさらに全体の焼きが高く、迫力のある作品です。

太刀 銘 一 杉田善昭作 平成六年五月日

杉田善昭刀匠の一文字に倣った作品。
会心の作という事でしょうか、茎に「一」の文字が刻まれています。

刀(金象嵌銘)永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀
       織田尾張守信長
    (棟)一平

河内一平刀匠の義元左文字写し。金象嵌は装剣金工の木下宗風師。
姿、各寸法、地鉄や刃文、金象嵌銘と、本歌義元左文字を忠実に再現しています。

短刀 銘 吉光
     令和四年 本能寺什
  (棟)一平

河内一平刀匠の薬研藤四郎。
本能寺の変で焼けたといわれ、現存していません。
しかし光徳刀絵図に焼ける前の状態が記録されており、それを元に再現されています。




青江

太刀 銘 守次(古青江)
青江派の祖といわれる刀工が安次。その子が守次です。
守次は貞次らと同様青江派を代表する名跡の一つで、初代以降同名が南北朝期まで続きます。
押形の太刀は鎌倉中期頃の守次で銘は小振りなタイプ。
刃長二尺六寸二分。堂々の太刀姿です。

太刀 銘 貞次(古青江)
貞次も守次同様青江派の代表的名跡で、古青江時代から南北朝期の青江と呼ばれる時代まで続いています。(古青江は鎌倉中期頃まで。以降青江。)
国宝の貞次は後鳥羽院番鍛冶に該当する貞次と思われますが、この貞次も同人ではないでしょうか。
古青江には比較的少ない直刃を焼いています。

刀 折り返し銘 為次(古青江)
為次も同名で複数居たようですが、その代表作は国宝で狐ヶ崎の号がある吉川家伝来の太刀です。
狐ヶ崎が二尺六寸。この刀は現在二尺二寸二分。折り返し銘を元の位置に直し、生ぶ穴が区下指4本とすれば刃長二尺七寸を越えて来ます。
うっかり映りを描き込むのを忘れていますが、先日久々に拝見しましたら、鮮明な地斑映りがありました。後日映りを書き加えます。

太刀 □□国青江住吉次作
   元徳□年(以下切れ)
吉次は鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した工人で、この工も同名が複数確認されています。
磨上げてなお二尺四寸七分。この太刀も大きい。

刀 無銘(伝青江)
こちらは無銘で伝青江と極められています。
古青江時代には逆がかる刃はさほど目立たないものですが、鎌倉末期へと時代が移るにつれ次第に逆刃が目立ち始めます。
この刀も差し表にその特徴が顕著です。

脇差 銘 加賀国住両山子正峯作
     昭和戌申二月吉日
隅谷正峯の南北朝期の青江に倣う作品です。
隅谷作品は備前の一文字を狙った隅谷丁子で有名ですが、平造りの物では多くの逆丁子作品を残しています。
茎形状などからも青江次直あたりをお手本とした事がうかがえます。

この後も古青江守次の大振り銘の太刀、古青江行次太刀、古青江吉次(青江か)太刀の研磨予定があり、また全身押形の採拓をしたいと思います。
     



相州上工は貞宗まで

「相州上工は貞宗を以て最後の人としなければならない」との一文が『「相州上工とその作風の大要について」本間順治(昭和33年)』に書かれていました。
それ以下の相州伝上位工を相州上工とする事が間違いとは思いませんが、私は本間先生の考えにならいたいと思います。

朱銘貞宗(特別重要刀剣)(柏原美術館蔵)

にしても「相州上工とその作風の大要について」を過去に所有していた事が無いのに何故この一文が頭に残っていたのか気になりその後も探していましたら、「相州伝名作集」の概説・研究課題に「相州上工とその作風の大要について」が多く引用されており、その中に上記一文もありました。



相州上工

先日ブログで「相州上工」という言葉を使ってしまいましたが、私実はその定義を知りません。
良くないなぁと思いながらもついつい。
相州上工という言葉は割と頻繁に目にするのですが、相州上工とはどの範囲をいうのか、明確に書かれた物に出会っていないかもです。
また「相州伝上工」という言葉もありますが、相州上工と相州伝上工を同じ意味として使用しているのかもよく分からず。
相州伝上工の”伝”を略して相州上工としているのかと思いきや、どうもそうでもない使われ方もあり。
書籍上、相州上工として一番よく上げられるのは、志津、貞宗、江、則重でしょうか。正宗は実はそれらより少ないと思います。(もちろん相州上工の筆頭は正宗ですが、相州上工という言葉は「相州上工の志津や貞宗を範とした・・・」の様に後の時代の刀工の作風解説に使われる場合が多く、結果、正宗登場数は下がります。)
次いで、左文字、行光、そして新藤五。私の中の漠然としたイメージも以上の刀工が相州上工です。
ただこれ等工人意外に、広光や長義を相州伝上工或いは相州上工として挙げる例もあるようで。
また過去の刀美本部鑑定刀解説を読んでいると、左文字を相州上工から外した形で解説された例があり、さらには高木や信国を相州上工として扱っている例も。これは益々分からなくなりました。
この何年もの間、京都支部会では何故か本部講師に来て頂く機会がほぼ無かったため(最近復活しました!)、私はこういう皆が知っている当たり前の事がスッポリと抜けていたりします。。次の本部からの時に質問してみよう。
昔読んだ何かの本で本間先生が「相州上工は貞宗を最後とすべき」という様な事を書かれていた記憶があり、先日来散々探しましたが発見出来ずです。
もしかしたらこの本じゃないか?!を思う物をネットで見つけ昨夜ポチったので届いたら確認してみます。おそらく「相州上工とは○○と○○と○○です」なんて事は書いていないと思いますが、貞宗が最後という一文があれば色々スッキリするのですが。。

25日にふくやま美術館の正宗十哲展を見に行きました。色々確認出来て良かった。



刀匠・河内國平の仕事

現在、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館にて『特別陳列「刀匠・河内國平の仕事―古代刀剣復元から現代の作刀まで―」』が開催中です。

 (以下奈良県立考古学博物館SNSより転載)

開催中奈良県立橿原考古学研究所附属博物館特別陳列「刀匠・河内國平の仕事―古代刀剣復元から現代の作刀まで―」
奈良県東吉野村に鍛刀場を営む刀匠・河内國平は、関西大学在学中に同大学教授であった末永雅雄・橿原考古学研究所初代所長から薫陶を受け、卒業と同時に宮入昭平刀匠に入門、80歳を超えた今も古刀に近づくため日々作刀に没頭されています。奈良県指定無形文化財保持者、日本美術刀剣保存協会の新作刀展無鑑査という最高位の評価を受け、さらに2014年には刀剣界最高の賞である正宗賞を受賞されました。一方、奈良県藤ノ木古墳出土の飾り大刀・剣や奈良県石上神宮七支刀など名だたる古代刀剣の復元を担ってこられました。本展覧会では、復元古代刀剣から河内家先祖の刀、師匠である宮入昭平氏の刀、そして河内氏本人の作刀から3人の弟子の作刀まで、刀鍛冶の仕事を通観します。

■会期:2024年2月3日(土)~3月17日(日)
 休館日:月曜日(ただし2月12日は開館)、2月13日(火)
 開館時間:9:00~17:00(最終入場16:30)

■講演会:2024年2月18日(日) 13:30~16:10 (12:00開場)
 場所:奈良県立橿原考古学研究所講堂 ※申込不要・無料
 13:30~14:30 講演「日本刀の魅力」河内國平
 14:45~15:20 対話形式「作品解説」 河内國平・伊東菜々子(当館)
 15:30~16:10 対談「日本刀のいろは」 河内國平・宮﨑政久(日本刀歴史・文化研究家)

■列品解説 2024年3月2日(土) 午前11時と午後3時の2回(各回約30分) 
 場所:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 特別展示室・瑞山ホール ※申込不要・観覧券が必要

■ワークショップ 刀の扱い方講座 
 第1回:令和6年2月10日(土) 13:30~15:30
 第2回:令和6年3月9日(土)  13:30~15:30
 場所:奈良県立橿原考古学研究所 講堂 ※要申込、各回定員15名

■お問い合わせ
 〒634-0065 奈良県橿原市畝傍町50-2奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
 TEL:(0744)24-1185 FAX:(0744)24-1355




京都府支部刀剣入札鑑定

2月は本部からでした。
本部からの鑑定刀について「答えをSNS等で明かさないで下さい」という内容の通達が支部宛てに来ていますので、しばらく前から本部からの鑑定刀に関しては、ここでも答えを明かさないようにしています。
という事で簡単な所感や結果を。

1号 太刀
細身で反り高く、陰の造り込み。
直刃調に小乱れ小互の目で、時代の古い太刀。
過去に見た太刀だと思う。
(先ほど確認しましたら2008年と9年に見ていました)

2号 刀
反り浅く中鋒。よく詰む肌に、浅い湾れ基調に互の目、小互の目。

3号 短刀
身幅広く反り浅く付く。板目に刃寄り柾。互の目湾れ。
誌上鑑定で見る短刀だと思う。

4号 刀
平肉付かず、反り頃合い。よく詰み地錵厚い。大互の目乱れ。

5号 太刀
重ね厚く反り付き長寸。詰み気味の地鉄に乱れ映り立つ。小互の目連れて錵付く。
これも昔見た刀のはず。(これも先ほど確認したら2008年に見ていました)





1号銘の重文太刀を最近拝見した所でした。
地鉄や沸え付きなど、全く違うタイプ。
3号はいつもの刀をそのまま切り取った様な出来。同じ刀工の作品でも刀と短刀では多少違うものが多いと思うが、ここまで同じなのは非常に面白い現象。



九州物

九州物の短刀の地艶。
鉄が柔らかすぎてヒケに苦しむ。
また今使っている拭いが少々粗目に作っている加減もありヒケ気味で。
拭いでヒケるなんてちょっと素人っぽい話ですが・・・。
九州物らしい九州物というやつは九州然とした白け方の地鉄で美濃の質とは全く違うものです。
しかし刃の冴えはしっかりとある物も多く、不思議な刀。
九州物は実は研ぎ栄えする刀です。研ぎの仕上がり次第でその上下の差が激しい刀。



押形制作

今日は全身押形制作の取材をして頂きました。
どの程度使って頂けるかは不明ですが、押形制作関連の取材の機会は少ないですし、大変ありがたい事です。



古押形

錆び切りをしていた短刀が私見で相州上工なので古押形にないかと検索中、埋忠刀譜に先日の額銘二字国俊(重要文化財)をみつけました。

この額銘国俊は刀美の名刀鑑賞に過去3度掲載された名品で、徳川将軍家、会津松平家、一橋徳川家などを経て、近年では中曽根康弘元首相の所有であった刀です。
現在の茎は、目釘穴三(内二つ鉄埋め)の状態ですが、埋忠刀譜では現在あいている一番上と真ん中の埋め穴が無く、一番下の埋め穴部が一つだけあいた状態。
念のため埋忠銘鑑を確認するとやはりこの刀の掲載はありますが埋忠刀譜とは状態が少し違い、現在あいている一番上の穴は無く、鉄埋めの二つがあいた状態の押形です。
埋忠刀譜は埋忠家の注文台帳的な意味合いが強く、単なる押形集とは違った性質を持ちます。故に埋忠刀譜に所載という事は、埋忠家がこの国俊に仕事として何らかの形で関わったものと考えられるのです。
ただその仕事内容は、拵金具製作、拵製作、磨上げ、金象嵌、額銘入れ、銘の折り返し、刀身彫刻、刀剣の購入や売却に仲介等々と多岐にわたり、埋忠家がどの様に関わったかは分かりません。

この刀、磨上げや額銘の仕事は丁寧であり、普通に考えれば埋忠家がこの刀に行った仕事は磨上げと額銘です。
ただ、台帳(埋忠刀譜)の記録は仕事の前と後ではなく、どちらか一方のみ。
仕事の後に記録したとすれば、磨上げと額銘などが考えられますが、仕事前の記録とすれば、既に額銘がある状態から現在の茎へとさらに磨上げたということに。
埋忠刀譜の本文翻刻をみると幾つかの押形に、仕事の後に記録したと分かる内容もあり、「兼光の目釘穴を銀で埋めた」「藤四郎吉光の目釘穴を印子(金)で埋めた」「藤四郎吉光の目釘穴を鉛で埋めた」例が記されています。(藤四郎を鉛で埋める事に驚きですが)
また蜂屋江や桑名江は明寿が磨上げ、金象嵌も明寿が行った事などが記されていました。
しかし仕事内容の記載が無い押形が圧倒的に多く、埋忠家がその刀にどの様に関わったかを断定する事は難しそうです。

この二字国俊の他、手元にある全身押形には古押形(含明治)に記録されたものが幾つかあり、ここに掲載させて頂きます。

稲葉江(国宝) 埋忠刀譜
備州長船兼光(重要美術品) 土屋押形(中央刀剣会本)
長光 土屋押形(中央刀剣会本・刀剣銘字大鑑)
桃川住長吉(重要美術品) 土屋押形(刀剣銘字大鑑)
備州長船義光 興国六年酉乙三月日
土屋押形(刀剣銘字大鑑)
古刀真影 
助包(古一文字)(重要文化財) 光山押形
近信(古備前) 光山押形
恒遠(古備前) 光山押形
景安(古備前) 光山押形
景秀(長船) 光山押形
国永(五条)(重要美術品) 光山押形
国吉(粟田口)光山押形
定利(綾小路)光山押形
備後国住一乗作
 応永十八年八月日
(福山市重要文化財)光山押形
国綱(粟田口) 今村押形
(菊紋)一(重要美術品) 今村押形

その他で把握しているものは光徳刀絵図の義元左文字(重要文化財)と骨喰藤四郎(重要文化財)などでしょうか。
探せば他にも見つかるのかも知れません。



刀職

白銀師の中田育男先生の工房にて中田晃司白銀師。
中田晃司師は普段は神戸の工房でお仕事をされていますが、この日は都合で加東市の育男先生の工房に。

今日は倉敷市児島の石崎三郎鞘師の工房に完成した太刀を受け取りに伺いました。

刀職の仕事場は何とも言えず心地よく不思議な感覚になります。
研師の仕事場にお邪魔してもこの感覚を覚える事はありませんので、同じ刀職でもまた別職だからなのでしょうか。

今、刀職者が不足していると感じているのは私だけではないはずです。
中田育男白銀師、中田晃司白銀師、石崎三郎鞘師の様な名人といわれる職人が増える事を切に願っています。