入鹿(2)

近年新たに出現した入鹿短刀の押形を採拓させて頂きました。
もしやと思い調べてみると光山押形に掲載の御品でした。尊い。

以下所見。

短刀 銘 □鹿住藤原實□(入鹿住藤原實綱:光山押形所載)
刃長 25.5㎝(八寸四分二厘) 僅かに内反り
元幅 22.3㎜(含庵23.7) 元重 6.3㎜(茎最厚部 7.1㎜)
目釘穴2 
鑢目:筋違 茎棟:角(鑢不明) 刃方:角(鑢不明) 茎尻:栗尻
棟:庵棟
地鉄:小板目よく詰み、強く流れ、ほぼ柾目に見える。焼き込み部から焼き出し映りが強くでて先に向かい全身に広がる。
錵映り風だが粒子が細かく白け映りに近い。柾状に流れる映りの中に、流れる暗帯がある(入鹿肌)。
刃文:直刃に浅い湾れ。フクラ先に飛び焼きかかる(*力玉)。差表、頻りに棟角を焼く。
帽子:直に小丸。

銘の切り出しが区下の高い位置から始まるため、一字目の「入」は摩滅。最後の綱の字は朽ち込みで判読しづらいが、糸編の一部が残る。
光山押形でも既に「入」の字は消え、「綱」も朽ち込んで判読が難しくなっている状態が記録されており、状態は当時とほぼ変わらないと思われます。

短刀 銘 □鹿住藤原實□(入鹿住藤原實綱)
石華墨では銘の擦り出しが困難だったため、カーボンの採拓銘を加えています。

銘鑑に掲載の入鹿派の刀工は以下など。

在実(文明)
入鹿(時代不詳)
入鹿(応永)
入賀(時代不詳・数人あり)
景貞(永享)
景貞(応仁)
景貞(大永)
景実(応永)
景実(永享)
景実(文明)
景実(永正)
景綱(応永)
景宗(貞治)
景光(至徳)
景光(文正)
景光(明応)
包貞(文保)手掻の人で入鹿派の始祖という。
包貞(正慶)
兼実(大永)
定次(正長)
貞実(文安)
貞綱(天文)
貞宝(文明)
実重(延文)
実高(永正)
実次(永徳)
実次(応永)
実次(嘉吉)
実次(大永)
実次(永禄)
実継(文明)
実継(永正)
実綱(応安)
実綱(応永)
実綱(長録)
実綱(文明)
実経(永享)
実経(永正)
実就(応永)
実延(文明)
実弘(応仁)
実弘(永正)
実正(永禄)
実守(応永)
実山(文明)
実行(応永)
実行(永享)
実世(応永)
実世(応仁)
実世(永禄)
実可(永徳)
実可(応永)
実可(文亀)
実吉(明応)
実善(応永)
実能(永正)
真勝(天文)
真重(応永)
真高(永正)
真弘(永正)
真行(長録)
椙法師(応永)
俊実(天文)
仲国(正応)
仲国(長録)
仲国(永正)
仲真(正応)
仲真(応安)
仲真(長享)
仲次(時代不詳)
仲宗(時代不詳)
入西(時代不詳)
則実(永享)
則実(天文)
紀州住太作(時代不詳)
光長(応和)
本家(建徳)
本実(応永)
本宗(文和)
安定(天文)
康実(享禄)
賀実(永享)

上記中、上の字が實で下が糸偏の銘は実経・実継・実綱の三工ですが、現存数などから考えても實綱でよさそうです。
時代が下がると入鹿も特徴が薄れ、入鹿肌も見られなくなりますが、今回出現の實綱は入鹿肌も明瞭で、室町初期をくだらないのではと感じます。

實綱含めその他の入鹿押形。

入鹿實綱
入鹿實可
入鹿實次
實守
紀州太作
紀州入鹿村實綱作

*光山押形には書き込みがあり、崩しているので私には読みづらいのですが、とりあえず読むと以下の通り。
「刃造直ハタメスクナシカヘリ飛テフカシボウシノ所フトキ打ノケ 力玉トミユル物アリ 三枚五」
直刃で肌目は少ない。返りが飛び棟を焼き下げ、深い帽子に太い打ちのけと沸玉を焼く個所がある。こんな事なのでしょうか。。
その通りの出来です。




入鹿(1)

入鹿庄ご出身の方から、紀州鉱山で採掘された鉱石を頂戴しました。
なんとお父様が紀州鉱山の職員をされていたそうで。
この地域からは様々な鉱物が採れ、紀州鉱山では銅鉱石などが採掘されていたそうです。
入鹿鍛冶が好きな私は入鹿に所縁の物を手元に置けて幸せです。ありがとうございます。
入鹿鍛冶は地元で採れる原料を使い作刀したからあの独特の作風になっているのでしょうねぇ。。



馬手指(二)

「法隆寺西圓堂奉納武器」の図版に載る馬手差拵を数えてみましたら、鞘だけの物と拵全体が残るものを合わせると18口ありました。(西円堂に残された刀剣類は総数6500口ともいわれますが、図版に載る拵(鞘のみ含め)は300に満たないと思います。馬手指拵といわれる物は掲載品以外にもあるのかも知れません)
それぞれのサイズや解説などは有りませんので見た目判断ですが、完全な短刀サイズと思われる物は5口。寸延び程度のサイズが6口、完全に脇差サイズと思われる物が7口でした。
この西円堂に残る馬手差拵で注目すべきは鞘に付く返角の位置です。

図1

通常の拵に返角が付いた場合、図1の様に鞘の棟側に付きます。(短刀や脇差の場合もう少し鞘幅の中寄りになる場合が多い)
これが馬手差になると全てが反転するということで、図2の様に想像するところです。

図2

しかし実際は図3の通り。

図3

単純に全てが反転するのではなく、返角は刃側へと移動するのです。少なくとも西円堂の図版に載る物は全てこの仕様となっています。
この様に刃側に返角が付く事で、右腰(或いは体の前側に)に差した場合、刃を下に柄が後方にという事になります。
ただ、短刀サイズならばその様に差して抜くことが可能ですが、こんなに長い刃長の脇差を柄を後ろに右腰に差し、それを右手で抜くなんて無理なんです。
ということで、この馬手指といわれている脇差、実は刃を下にして左腰に差した物じゃないでしょうか。
「打刀拵」に大小の半太刀拵で刃を下にして差すタイプの掲載がありますが、あれの類似品ということで。
あ因みに、私武術の嗜みはありませんし、甲冑を身につけた事もありません。刀を振った事もないですね。ちと説得力に欠けますなぁ。。



馬手指(一)

某刀屋さんの動画で柄曲がり(振袖茎)の短刀や馬手指(右手指)についての内容がありました。
馬手指とは、体の左側ではなく右腰に差す物といわれている腰刀の一つです。
馬手指拵の現存品は少なく、その使用法についての記録も少ないことから、腰へのさし方、抜き方について様々な説があります。
某動画ではその使用法について詳しく解説されていて、抜くスピードが重要なため刃長が短くなければならない事など、いちいちご尤もと思える内容でした。
ただ馬手指でも短い物しか無いわけではなく、法隆寺西円堂に複数残る馬手指にはむしろ長い物が多いのです。
「法隆寺西圓堂奉納武器」の解説によると、「その刀身は菖蒲造の鎬の高い尖鋭な刀身か頑丈な両刃の打下し身が多い。刃の長さは一定しないが、一尺三、四寸を普通としている」とあり、図版に写る馬手指拵は、大小の小程に長い物多数です。
こんなに長い刀身は右にさして右手で抜くのはちょっとしんどいですよねぇ。一体どんな使い方をしたんでしょう。
最近振袖茎の短刀6口ほどと関わり、また自分でも銘が差し裏に切られた馬手指と思われる短刀を所持していますので、馬手指というものには興味があります。よく分からないというのがまたいいですし。

法隆寺西円堂
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馬手差の拵を | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
馬手差 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
入鹿實可拝見。馬手差しのこと | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区



日刀保京都府支部入札鑑定会

今回は当番でしたので以下の鑑定刀にて入札鑑定を行いました。

1号 太刀 無銘 綾小路     (重要刀剣)
2号 脇差  銘 越中守正俊   (重要刀剣)
         寛永三年八月吉日
3号  刀  銘 左行秀(花押) (重要刀剣)        
         嘉永六年二月日 足達正達佩之
4号 短刀  銘 清磨      (重要刀剣)
5号 太刀  銘 包清(手搔)  (重要刀剣)

1号 太刀 綾小路

2号 脇差 越中守正俊

3号 刀 左行秀

4号 短刀 清麿

5号 太刀 包清

綾小路は、初期粟田口や五條など古京物への入札が多くありました。
手掻包清は地鉄が大変強く美しく、そして身幅重ねともたっぷりなため、ほぼ全員の方が南紀や忠吉へと入札。
出題者としては心ひそかに喜んだのであります。。



押形の定規を

使っていた定規があまりにみすぼらしかったので新たに作りました。

刀身に定規を触れさせず、刃文の高さを測りながら同じ高さの刃文を描くことが出来ます。
また定規を横に動かしながら位置決めして行くことで、互の目や谷の幅などを正確にコピー出来ます。



押形の定規

最近も時間を作り、押形作業は行っています。
近いところでは、大道、寿命宗吉、古金剛兵衛、国貞系大阪新刀、越中、繁慶、紀州末古刀、肥前吉房、古青江行次、古備前信光、包永、包清、左文字などを。
長年押形を描いていると刃文の調子というものに敏感になるというか、識別能力が上がるというか、見えて来る物は確実にあります。
あくまで私の場合ですが、当初は基本どんな刃文も定規などは使用せず描いていましたが、美濃物や末備前等は慣れるほどにそれが無理になり、今は定規を使用して描いています。
とはいえ流石にノギスを使うまでは行きませんで、この様な簡単な物で。

思い付きで雑に作った定規ですが、便利でそのまま長年使っています。



繁慶研磨

某コレクションの繁慶を研磨。
近年たまたま繁慶を見る機会が多く、7,8口拝見したでしょうか。
繁慶というと則重の松皮肌の様な大板目肌立つイメージを持つものですが、実際はそればかりでは無い様で、近年拝見した繁慶の多くはよく詰んだ細かい地肌でした。
今回研磨の繁慶はイメージ通りのもので、則重や正宗を彷彿させる出来。
何より砥当たりが柔らかく、鎌倉時代の刀の内曇りを引いている感覚です。
また繁慶は匂い口が沈むとされますが、刃も明るくとにかく良い刀。



破天荒女

数年前85歳で亡くなった伯母は若いころ女優さんでした。
私が知る伯母は、とにかく華がある”東京のおばさん”。いつも知的で明るく、冗談を言っては軽く踊って見せてくれる人。
小さいころから”伯母さんは女優をしていた”とは知っていましたが、次第に「なぜ?どんな経緯で?」との思いを持つようになり、しかし直接聞く機会もなく。。
ある時、古本屋の古い週刊誌に伯母の写真を見つけ購入。そこには東京のおばさんの一番華やいでいた頃の姿が。
以来伯母が載っている週刊誌や映画雑誌、エッセイ集などを見つけるたびに買っていたら、20冊を超えていました。
なぜ?どんな経緯で?を直接は聞けませんでしたが、古本屋に並ぶそれらにはその”なぜ”が書かれていることも。

(写真は映画のパンフレットから)
作家の野坂昭如さんとの対談が掲載された本がありそれによると、十津川の家を出たのは14歳、1949年ごろ(昭和24年)で単身大阪へ。
当初は美容師を目指していましたが、歌とダンスが好きでダンサーとなり上京。
ただその後の仕事ぶりには「なぜ?」の疑問が増してしまうのですが…。
まずショーダンサーとして独りハワイに渡り、それからニューヨーク、ラスベガス、ロサンゼルス、ロンドン、ローマ、東南アジア諸国等々で踊っていたそうです。その後、アメリカ・イタリアの合作映画に出演。帰国後は日本でドラマや映画などに出ていたと。
因みに伯母は身長165~170㎝(記事により様々ですがたぶん実際は160台後半)と当時の日本人女性としてはかなりの高身長でグラマラスな姿態。野坂さんはそんな伯母のことが大好きだったそうで、野坂さん本人も書いていますが他の雑誌にも野坂さんをはじめ様々な文化人との交流話が度々出てきます(どこまで本当か分かりませんが)。
伯母に関してもですが、昔の記事には若かりし頃の私の父がちらと出て来ることも。
父は五人姉弟の末っ子で、次女の伯母は8つ離れた末っ子の父を一番可愛がっていたそうです。
東京ではバンドマン(ドラマー)をしながら伯母の付き人をし、姉弟二人でアパート暮らしをしていた事などが記事に。
そういえばその当時の話は殆ど聞いたことがなかったかもです。

私の祖父は父が2歳の時、大阪湾で戦死しています。なので父は祖父の顔を知らないのですが、伯母はその時10歳。
父親の顔を全く知らず別れをむかえるのと、10歳で父親との別れを体験する事とどちらが不幸なのでしょう。
それは私には分かりませんが、伯母が郷里を出た理由には強く関係しているのではと想像します。てか、出た理由もその後の人生も、私みたいな人間には想像しきれるものではないか。。
雑誌に掲載される帰国後ある程度年齢を重ねた頃の写真には(年齢不詳で通していたようですが)、やさぐれ感を演出したものがあり、煙草を吹かす姿が印象的。
私が知らない伯母の強かで破天荒で、グラマラスでかっこいい写像がそこにあります。
YouTubeで土方歳三の生涯を語る動画をみていて、私の身近に居たかっこいい人の事を思い出したので書いてみました。




硬い末古刀

硬い末古刀の仕上げ。
とにかくひたすら硬く、内曇りが効きづらい。
こういう刀は地肌が良く出る事が多く、今回も細かく地沸が付き、シャキッと簡単に晴れる。
ただ刃艶が効かないのでよく選ばなければならず。刃文もとりとめのないもので、どう拾っても美濃新刀のようになり、いかん。(美濃新刀が悪いということではなく)
少し前にも同様に硬い刀の事を書いた気がして検索したら1月ですか。7月くらいかと思っていたら。。時間間隔がバグっています。
諸々 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)
↑ここにも書きましたが、今回も砥当たりだけじゃなく、持って硬い刀。

眠い刀を「物ぎれしそうな」と表現する場面に度々でくわしますが実際どうなんでしょうか。
眠い刀で畳表を切ろうとした人を二人知っていますが、どちらの刀も全く切れずでした。切断出来ず途中で止まります。
重さ尋常、刃は普通についていますし、平肉も普通か少し無いくらいです。なので形状や研ぎの問題ではなく、おそらく刀の硬度の問題なのでしょう。
もちろん切断できれば良いわけではなく、折れない事の方が重要なのかもですが。