映り

吉岡一文字生ぶ茎の太刀、内曇りを引く。
研磨前、全身発錆過多にて研磨必要状態。各錆部分研磨にて除去。発錆箇所多数につき内曇以降全身研磨。


図譜解説には「幽かに映りたち」と書かれ現物を見ても確かにその状態。というかほぼ映りは確認出来ない淡さ。
刃文は吉岡で良いと思うも、もっと映りがあってもよかろうに・・・。
旧研磨は内曇りの効きも良く、小肌を意識した良い研磨。刃取りは薄いが拭いもしっかり効いて好感の持てる仕上げ。
因みに砥当たりは非常に柔らかい。内曇りの研磨時間は新刀の5分の1程度か。つまり通常40時間必要なところを8時間で済む。それでいて明るさは新刀上作と同等かそれ以上。(時代が下るにつれ「柔らかい=眠い」となるが、古名刀は然にあらず)

今回内曇り刃砥を引き、映りの出現度合いに驚く。
焼き出しから横手下まで、こんなにも明瞭な乱れ映りが眠っていたか。。
映りは焼き入れにより発生する現象だが、研ぎ上がった刀に視認出来るかどうか、それは研磨次第。日々の研磨でよく分かっているつもりで居たが、ここまで鮮烈に体験したのは初めてかも。
元の木阿弥にならぬよう一旦置き、明日から新作下地研磨に入る。





鉄の鎺

南北朝の刀身。庵頂点計測で39.2
現代作の金着太刀鎺の形状

鉄鎺は古い太刀や薙刀に稀に見ますが、金着せ太刀鎺の様にスッキリスカッとした物は少ない様に思います。
時代の姿故でしょうか。それとも素材が原因か。
構造自体、鉄鎺は基本どれも結構薄いんです。しかし重い姿。
比重の関係上、金銀銅製よりも軽く感じるからなんだか頭が混乱するんです。軽いのに重い・・・。
画像の通り刃方がこんなに厚いとどうしても野暮ったくなりますし、太刀鎺とはいえ踏ん張りも少ないし。
(画像の通り、棟に飲み込みが無いという事は刃にも無いという事になります)
古い時代の刀身はどうしてもそれなりに研ぎ減っていますので、鉄鎺が残っていてそのまま使用されている場合、刀身よりも鎺が一回り大きく見えてしまい、鎺が余計野暮ったく見えてしまうという事も。
しかし古い時代の太刀で、刀身製作当初の鉄鎺を今も使えているなんて奇跡なんです。



木兎の拵

重要文化財で春日大社所蔵の柏木兎腰刀の写しを久々に拝見。
またざっくりと計測させて頂きました。
うちの田舎ではフクロウの事を「ふるつく」といいます。
高2の時、郷里の杉山で野生のフクロウを見たことがあります。トビより一回り大きく、目の前の杉枝に無音で飛来。
映画の主人公が山で鹿に出会うあのシーンの様に、深閑な空気を感じた記憶は鮮明です。
あの時のフクロウにこの耳みたいな毛はあったかなぁ・・・。
今は夏の深夜この研ぎ場で窓を開けると「フルツクフーフーッ」とフクロウの鳴き声が聞こえます。
「ふるつく」の呼び名は鳴き声から来ていたんですね。京都で初めて知りました。

”塗立”(ぬりたて/刷毛目などをあえて残す技法)
耳かきが裏を向く古いタイプで製作した笄

鯉口角上34.0
鯉口角下33.2
栗型部鞘幅32.7
返り角部鞘幅32.3
鞘尻角下30.1

鞘尻角31.1

鞘厚中央付近13.5

鞘厚鞘尻部9.3
鞘尻角厚10.2
栗型30.8
栗型から鯉口62.6

返り角先から栗型21.6
栗型から返り角下端
筒金目釘穴部幅33.5
筒金金小縁厚15.5
紫檀頭幅35.0(本歌は沈香)
頭上部長26.9(中は鎺部まで一体)
四分一鎺
台付鎺の原形
上貝内部に柄木が入る特殊な造り込み

所持されている方も今回初めて気が付かれたそうですが、目貫の目釘部に文字が切られていました。
作者銘で「脩」かとも思ったのですが、行人偏に見えますし・・・。
もしかして「循」でしょうか。
上野さんの雅号や作品に刻まれてきた文字や銘文を存じ上げず分からないのですが、もしも循だとしたらなんだか素敵な意味な気がします。

柏木兎腰刀(かしわみみずくこしがたな) | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)
柏木兎腰刀– 第一室刀剣 | 上野の博物館 (sakura.ne.jp)



姿を

短刀拵の姿を改めて勉強させて頂きました。
西円堂から出たと言われる鞘を元に柄を復元した物です。
刀身はたまたまピッタリ合った振袖茎の短刀です。

ざっくりですが数値も測らせて頂きました。

鯉口角38.5
角下37.6
最広部38.9
最狭部36.5
栗型36.1
栗型15.8
栗型~鯉口18.0
栗型~返角先59.8

鞘を握った時大変驚いたのですが、復元された頭は卵型にしていますが鞘は卵型ではなくラグビーボール型でした。
てっきり鞘も卵型だと思っていたんです。これが一番の収穫でした。

法隆寺へ | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)



長谷八幡宮

お散歩でよく行く長谷八幡宮さん。

小さな社寺は人口減少により存続が難しくなり、消滅するところも多くあると思います。
しかし人口が増えている地だから安泰という事はありません。
今後の存続はますます難しくなるのでしょうか。



馬手差の拵を

刀掛けは背の低い物が好きで、鞘底9㎝のアクリル刀掛けに刀を置いています。

いいねぇと毎日眺めていましたら、少し寂しくなっても来るもので。
せっかく2段のアクリル刀掛けもあるんだし、短い物が有ればなお嬉しく。
幸い馬手差銘の短刀を持っていますので、馬手差拵をつくろうと。

短い物で好きな拵えは、少々時代が上がりますが柏木兎腰刀です。
柏木兎腰刀(かしわみみずくこしがたな) | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)
↑この拵は故上野修路氏の製作で、本歌はもちろんですが、本歌とほぼ変わらず大好きな拵えで、拝見する度に感動すら覚える見事な仕事です。
柏木兎腰刀– 第一室刀剣 | 上野の博物館 (sakura.ne.jp)

上杉の黒漆合口腰刀(九郎二郎)も本当にかっこいい拵ですね。
知人が製作しましたが、本当に美しい。
私、鐺が一文字なのと、薄い鞘が好きなんです。

法隆寺へ | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 (kyoto-katana.com)
↑西円堂から流出したという鞘から復元した拵。
これも好きな拵えですが、鐺が丸なのとゴロンと太い鞘は、自分が持ちたい好みからは少し外れてしまい。。
この柄形状は本当にかっこよく好きなのですが、薄い鞘にこの柄は合わないというか無理で。(柄復元は上野修路氏です)

法隆寺西円堂奉納武器にある馬手差拵をそのまま再現すると、↑この拵に栗型・返り角・櫃穴を馬手差の配置する様な形になると思うのですが、そうするとゴロンとした鞘になってしまいます。
九郎二郎の雰囲気で栗型を裏、返り角も裏で刃方に付け、先を棟方向に。こんな事をすると笑われてしまうのでしょうか・・・。
天正の時、切羽をあえて1,5ミリの厚い金着にしましたが途中でうるさくなり赤銅に作り替え、次はセオリー無視の厚い切羽がカッコ悪くなり0.5の薄い赤銅に替えた経験がある様に、冒険はせず現存品に倣うべきでしょうか。
しかし現存の品は僅少が過ぎます。もっと色々なタイプがあったのではないか、そんな気持ちがどうしてもあり、自分の好み寄せ集め拵を作りたくなってしまい。。しかしやはり後悔するパターンでしょうか。。
こんな構想段階が一番楽しいのかもです。




幡枝八幡宮に行きました

3日連続ですが幡枝八幡宮に。やはり石清水が見たくて。
その前に四条烏丸に用事でそれが済んだ後、北山の京都府立京都学・歴彩館で降ろしてもらい、調べ物を。
ここだと神社の資料が沢山あるはずです。でピッタリのがありました。
「幡枝八幡宮社創建千百年記念誌(平成6年発行)」。
色々載っていて、もちろん国広の事も。 
糸巻太刀拵があるはずでその存在がよく分からなかったのですが、太刀拵の写真も掲載され健在のようです。
幡枝国広は現在は京都国立博物館に寄託されていますが、ネット情報では東京国立博物館に寄託されているとするものも多くあります。
記念誌によると、岸本先生が発見するまで御蔵の中で赤錆のまま眠っていたそうで(記念誌では昭和7年頃発見と書かれていますが、岸本先生ご自身は刀剣美術28号(昭和29年)で大正15年2月7日発見と書かれています)、その後、研磨や拵修理の上、東京国立博物館に寄託され、昭和60年頃に京都国立博物館に移されたそうです。

府立京都学歴彩館から北に歩き、岸本先生と同じく深泥池を通り幡枝八幡宮に。

さて、肝心の石清水ですが・・・。
実は十数年前、幡枝八幡さんで神社の方に国広が焼き入れに使った湧き水はどこですか?とたずねたのですが、その時は東方向にあったはずだとお教え頂いていたんです。それでその山の斜面を探していたのですが・・・。(その方面には幡枝古墳群があり、今思うとその事と伝わってしまったようです)

幡枝八幡宮社創建千百年記念誌に、明治期と昭和初期の八幡宮の略図があり、以下の文章も。
「この山の南麓より清水が湧き出て以来、神社の霊水として山上まで汲み上げて使われるとともに~この清水を汲み上げて神前で鍛えた(国広が)太刀は本宮の神宝とされている」
明治の略図に石清水の場所は記されていませんでしたが、昭和の図には幡枝八幡さんの南麓に「石清水」との記載がありました。
実は薄々そうじゃないかと思っていたんです。。
南麓には「幡枝石清水公園」という小さな公園があるんです。そして井戸の様な物も。
これが井戸かどうか、水が湧いているかどうかは未確認ですが(勝手に開ける訳には行きませんし)、この公園が「石清水」の跡で間違いなさそうです。

石清水の場所も住宅地となり若干残念な気持ちもありますが、沢山のちびっ子達が雪がとけてぐじゅぐじゅの中、ドロドロになって遊んでいましたし、国広さんも怒りはしないかも知れない、そんな気持ちで自宅まで歩き、天正打ち国広の押形を眺め、また別の刀の内曇りを引きました。





今日も幡枝八幡に。

夕方、国広が焼き入れを行った石清水を探しに行ってみました。
岸本先生が書かれている幡枝国広発見と國廣大鑒制作時のエピソードが刀美にありますが、それにはこの石清水の写真があります。

急いで歩いても家から4,50分かかるので既に薄暗く。獣の罠があったり。。熊用でしょうか。
今でこそ幡枝八幡宮周辺は閑静な住宅街となっていますが、私が岩倉に来た当時まだこの街は無く、畑や山野でした。
國廣大鑒制作時、岸本先生が幡枝八幡宮に幡枝国広を借りに行くのに「深泥池で自動車を降り小さな峠道を上がって行ったが」と書かれていますので、深泥池から幡枝町への道路自体まだ無かったようです。岩倉はほんとに山奥だったんですねぇ。すみません、土地勘がないと分からない話で。

一応地図を貼っておきます。地図を少し縮小すると南に深泥池が。

多分国広さんが通っていた時からあった木々。
結局石清水は見つからずでした。



幡枝八幡宮

堀川國廣の天正打を研磨させて頂いたので、お散歩で久々に幡枝八幡宮に行ってみました。

重美の幡枝國廣は日刀保京都府支部の支部長を務められた岸本貫之助先生が、大正十五年にこの幡枝八幡宮から発見しました。
(京都御所の東山御文庫で御宸翰を整理していた方から、明和頃の記録で幡枝にて國廣が刀を鍛え奉納したとの記録を見たとの一報があり調査した結果です)

木彫りの狛犬。いい顔してます。
國廣太刀はこの蔵にあったのかと思いましたが、これは神輿蔵だそうです。
それにしても凄い発見ですね。
特に大都会に住む方からは、こんな事はもう無いと思われがちですが、実はまだまだ眠っているのが刀です。
今朝拝見した錆身短刀、古押形に有りそうな予感がして探しましたら、光山押形所収の品でした。




調べ物を

調べ物をしていて夜中になり、外を見たらこんな事になっていました。

毎年恒例の雪写真ですが、今回はちょっと雪多めです。