白銀師

京都の上野宏樹さん。研ぎも大概やけど白銀も相当や・・・。(関西圏以外の方のために補足すると、もちろん良い意味で書いてます)

手仕事をしていると、別の分野でも物を見ればその凄さはある程度分かるものですが、世の中そういうのが分からない人が増えている気がします。
こういう動画があれば、その凄さの一端を知る事ができます。



西圓堂

10年振りに法隆寺。

金堂に初めて入りましたが、槍鉋の跡が美しい一枚板の巨大な扉が多数ありました。
当初の扉は昭和の火災で焼失、今のものはその後の修理での復元だそうです。この大きさの板は国内産では無理だろうと思っていたら、ボランティアのおじさんが東南アジア産だと教えてくれました。檜だとの事でしたが、檜に似たものという意味かもしれません。

久々の西圓堂。参拝の方もちらほら。

西圓堂は西日があたる小高い所にあり、柱にある「西円堂」の文字が以前より薄れていました。
八角のお堂はもっと小さいイメージだったのですが、東にある同じく八角の夢殿と変わらない大きさのようです。堂内には入れず中の写真もNGで、峰の薬師様のお姿を挙げられないのが残念。。

昔、このお堂には薬師瑠璃光如来を取り囲むように、六千余口もの刀剣・鞘等が壁面を埋め尽くし懸架されていました。(現在は宝庫にて保管されています)
戦前行われた西圓堂の調査報告『法隆寺西圓堂奉納武器』。書中、六千余口という数字は日清・日露戦争で軍刀として陸軍省に献納した後の数字である事が記されていますが、その後の大戦では更に多くの刀が失われています。残念過ぎる。。

さて、この調査報告では西圓堂の刀には茎の短い打刀が多くあることが書かれています。所謂”片手打ち”というやつですね。この片手打ちの刀は末古刀によくある物で、この事になんの引っ掛かりも無いかも知れませんが。。
現在世に数多ある磨上げて刃長二尺三寸前後、茎尻に銘が残る太刀。あれは何度かの茎改変後の状態であり、最初の加工は区はそのままに茎を短く切っただけだった可能性が大いにあります(生ぶで茎長20数㎝、切断後は15㎝程度)。
刃長は二尺五、六寸と長寸で茎は15㎝程度と、茎だけ異様に短く加工された太刀を見る事は稀です。実見すると先重りが酷く、大きな違和感がありますが、実はそれを良しとした時代がそれなりに長くあったのではないかと思っています。
西圓堂の刀が公開される事はほぼ無いため、どのような物があるか、この報告書より他に知るすべはありませんが、西圓堂に限らず、多くの刀を保有し中世から時間が止まったような場所には、完全な生ぶな物はもちろんですが、一次加工で止まったままの刀をまとまってみる事があり、その違和感と貴重さから妙な興奮を覚えます。

大宝蔵院では百済観音を初めてみました。ちょうど読み始めていた白洲正子の本に法隆寺の百済観音が出て来たのでまた見に行きたくなりました。

姿を | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
法隆寺へ | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
馬手差の拵を | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
馬手差 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
小柄櫃 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
無題 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
入鹿實可拝見。馬手差しのこと | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区





短刀を

SNSで見かけ、お店に電話してまだ有る事を確認、新幹線に飛び乗って、短刀を買って来ました。
刀屋さんで短刀を買ったのは初めてです。合口拵付きの小さな短刀。
製作当初より重ねは何ミリ減ってるでしょう・・・かなり減っていて、直ぐ刃もギリギリでつながっています。
通常の相場感の倍~3倍の価格なんですが。。嬉しくて仕方なく。
白鞘と拵にお揃いの袋の製作をお願いし、今押形をとっています。



雲の旅

今年の秋の支部旅行は林原美術館・岡山城・岡山県立博物館の3館連携展示「雲の旅」でした。”雲の旅”って素敵なネーミングです。
雲次は研磨や拝見の機会も度々ありますが、雲生は少なく、雲重は手に取った事もない無いかもしれません。雲類の珍しいところでは銘に「雲」を使わず「備前国住守次」と切る人もいて、重刀特重に1口ずつ指定があります。
鑑定刀にも雲類が出る事があり、そのたび好きな刀で、今回の旅行は楽しみにしていました。
確か最近の誌上鑑定にも雲次が出ていましたが(確認したら刀美8月号でした)、帽子が「勘の刃」となる事がままあるとの事で、この”勘の刃”というのが気になり、それも確認したく。
勘の刃とはなんぞやですが、古剣書によると「かんの刃とは横手の内半分よりみつかしら少し下かたまで刃細やくなり是をかんの刃と云うなり」とあり、ちょっと何言ってるかよくわかりません。。要は直ぐ刃が横手を越えても真っ直ぐに入り込み、それから丸く帽子へとつながる事らしく。
ただこの状態の帽子は研ぎで後天的に横手が下げられた場合にも生じるため、どうなのかと疑問にも思うし。
しかし調べてみると、“勘の刃”という言葉が初めて登場するのは本阿弥光甫(江戸前期)の『空中齋秘傳書』が最初のようで、350年前の時点で既に指摘されている以上、研ぎ減りだけが原因とも言えなさそうです。確かに、勘の刃の匂い口のラインを追うと微妙で独特な曲線で、研ぎ減る前からその様な特殊な帽子であったのかもと感じます。
今回の展示では林原美術館に本部鑑定でも度々登場する重美の雲次が出品されており、これに勘の刃を確認することができました。

現在、雲次は一般に「うんじ」と読みますが、『往昔抄』(室町時代末期頃)には銘の横に読み仮名が記されていて、雲次を「うんつく(ぐ)」と読ませています。
雲次を見る度に頭の中で「うんつぐうんつぐ・・・」と呟きます。

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