雲の旅

今年の秋の支部旅行は林原美術館・岡山城・岡山県立博物館の3館連携展示「雲の旅」でした。”雲の旅”って素敵なネーミングです。
雲次は研磨や拝見の機会も度々ありますが、雲生は少なく、雲重は手に取った事もない無いかもしれません。雲類の珍しいところでは銘に「雲」を使わず「備前国住守次」と切る人もいて、重刀特重に1口ずつ指定があります。
鑑定刀にも雲類が出る事があり、そのたび好きな刀で、今回の旅行は楽しみにしていました。
確か最近の誌上鑑定にも雲次が出ていましたが(確認したら刀美8月号でした)、帽子が「勘の刃」となる事がままあるとの事で、この”勘の刃”というのが気になり、それも確認したく。
勘の刃とはなんぞやですが、古剣書によると「かんの刃とは横手の内半分よりみつかしら少し下かたまで刃細やくなり是をかんの刃と云うなり」とあり、ちょっと何言ってるかよくわかりません。。要は直ぐ刃が横手を越えても真っ直ぐに入り込み、それから丸く帽子へとつながる事らしく。
ただこの状態の帽子は研ぎで後天的に横手が下げられた場合にも生じるため、どうなのかと疑問にも思うし。
しかし調べてみると、“勘の刃”という言葉が初めて登場するのは本阿弥光甫(江戸前期)の『空中齋秘傳書』が最初のようで、350年前の時点で既に指摘されている以上、研ぎ減りだけが原因とも言えなさそうです。確かに、勘の刃の匂い口のラインを追うと微妙で独特な曲線で、研ぎ減る前からその様な特殊な帽子であったのかもと感じます。
今回の展示では林原美術館に本部鑑定でも度々登場する重美の雲次が出品されており、これに勘の刃を確認することができました。

現在、雲次は一般に「うんじ」と読みますが、『往昔抄』(室町時代末期頃)には銘の横に読み仮名が記されていて、雲次を「うんつく(ぐ)」と読ませています。
雲次を見る度に頭の中で「うんつぐうんつぐ・・・」と呟きます。

グーグルマップ・浄拭 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区



大和物

出先にて室町前期の大和の在銘短刀と出逢う。
以前長い物でこの銘を見ており、もしかして世にこれ1つしか無いかと思っていたが、調べるともう1口在る事が判明。それが今回の短刀。
保存・特保資料が簡単に閲覧出来る場所があれば、もうそこから出て来ないです。



南紀

「いい南紀(重国)あるよ、見においで~」とお声がけいただき、紀州へ。
鞘を払うと、刀身表面の程よい硬度と的確な研磨が生み出す、名品特有の光彩が目に映ります。その輝り方は潤いともどこか異なるもので、鎌倉期の刀を含めても数年に一度出会えるかどうかの煌めき。

刃長は二尺三寸少々か。反りはそれほど深くないが、浅過ぎず頃合い。
身幅は際立って広いわけではなく、30㎜程度という印象。しかし鎬が大変高いので手持ちはいつもの南紀の通り、ズッシリ。
ここで不思議なのが、一般的な重い新刀を持った感覚とは違うこと。研ぎ減っていない古名刀の国宝・重文などを手に取った時感じるあの味わいと同じ。南紀の好きなところの一つです。

この南紀、もしも地鉄だけを見せられたら「行光、もしかして新藤五・・・いや、江ですか?」というかも知れず。。
平地に柾気は無く板目に杢混じり、細かな地錵と美しい地景。その地景は無数に走るも嫌味がなく、むしろ上品さが漂う。
あれだけ地景が入っていながら上品な地鉄とはどういうことなのか。。

刃は中直刃をやや細めに焼き、全体に僅かな高低がみられる。非常に良くニエて、刃幅の7割は錵。
研ぎが良く鋒はすっきりと締まり、横手下より若干焼き幅が広くなり、直ぐに先がほつれて短く返る小気味良い帽子。
鎬地は鎬寄りが板目、棟側は程よく詰む柾目。
とにかく地鉄は晴れ渡り、刃は明るく澄み切った一口。やはり南紀は新刀の王者。



”倣”

また何口か全身押形を採拓していましたが、新々刀を滅多にとらないので久々に。

青龍軒盛俊のおそらく造。
過去におそらく造の全身押形は清麿と宗昌親さんしか採拓していなかったかも知れません。
おそらく造といっても実は姿は様々ですが、大きく分けると助宗型と清麿型に分かれるでしょうか。
助宗はおそらく造の元祖。刃三つ角がしっかりあってフクラ枯れ鋭く、横手付近の身幅は張らず。
一方清麿のおそらくは横手で張る、或いは張って見える造り込み。
現代刀のおそらく造を今まで何口も研磨させて頂きましたが、多くは清麿型です。
今回全身押形採拓をした盛俊。銘文に「倣助宗盛俊作之」とある通り島田助宗のおそらく造に倣った造り込みで「おそらく」の彫物もあり、刃長もほぼ同じ。ただフクラに鋭さは無く、研ぎ減っていない状態を意識したのかも知れません。
この銘文の「倣」ですが、刀にはいつ頃から使われたのでしょう。現代刀には「写」とならびよく見るのですが古い物には見ない様な。。
鍋島景光 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区

ちょと調べてみましたら、栗原信秀や運寿是一にありました。使われ出したのは新々刀期あたりからでしょうか。