玉置神社に

ちょっと久々に玉置神社に。写真は玉置山の道中から。
世界遺産になって以降参拝者が増え、山道に慣れない運転者も多く対向車に注意しないと危険です。この日も前後輪とも脱輪している車が。。

最近は「呼ばれなければ辿り着けない神社」なんて言われている様ですが、誰が言い出したんでしょか。ライターさんでしょうか。
そういうの全然好きじゃないです。。

境内には杉の巨木が多数。

本殿。
おそらく軽く100回以上は行っているはずですが、今回が一番荘厳に感じました。
今後は毎回更新されるのでしょう。





肥前吉房研磨

新刀期、肥前刀の数は圧倒的ですが、その殆どは忠吉忠広、正広行広です。それに次ぐのが忠国や宗次などでしょうか。
過去に吉房を研磨した事はなく、手に取るのも初めてだと思います。
元は錆身。肥前の丁子で現在内曇り。
もう古刀ですね。軟らかいのに明るい、南北朝期以前の古刀の内曇りを引いている感覚です。
忠吉忠広は沢山研磨して来ましたが、こんな感覚を味わった事はありません。
吉房は忠吉忠広の作刀を支え生涯を終えたため自身作が少ない訳ですが、相当な腕利きです。肥前刀工の層の厚さを実感しました。



末古刀短刀窓開け

錆身の末古刀在銘短刀の窓開け。
刃長6寸4分。元重7.7mm。
末古刀によくある上身が小振りなので茎がやけに大きく見える短刀。

一般に短刀を押形にする場合、刃区に対し棟区側がかなり深い押形になります。それは、棟区の深さに加え、庵の高さも押形に描き出すためですが、重刀図譜などを見るとその様がかなり極端に感じます。
普段あまり意識せずその状態に慣れてしまっていましたが、改めて注視すると少々庵が高過ぎるきらいが。
もしかしたら重刀図譜は棟角の線を取り終えた後、庵の高さ分だけずらし、また棟角の線で庵の頂点線を引く事をせず、時短のためか或いは棟の片面の幅を表現するために、そのまま紙を巻き込んで実際の庵の頂点で線を引いているのかも知れません。(未確認)

さて今回の小振りな古刀短刀、おそらく打ちおろしに近い状態で眠っていたもので、刃区の深さが異様です。
この手の小振りな短刀は室町中期以降に多く見られますが、上身に比して茎がやけに大きく感じるのが通常で、その姿を見慣れていました。
しかし、減っていないこの造り込みはこの様な姿だったとは。。上身の長さは短いが身幅がしっかりと有り、刃区が異様に深く、決して茎ばかり妙に大きい訳じゃなかったんです。
通常みるこの造り込みの殆どは上身が研ぎ減った結果の姿という事です。



減っていない刀

鎌倉末期の著名工の弟子といわれる刀工の、新出現の在銘短刀を研磨。在銘の品は僅かしか確認されておらず大変貴重な品。
奇跡的なレベルに研ぎ減りが少ないため、刃区棟区とも非常に深い。
一般に流通する古い物の場合、基本的には研ぎ減った物が多く、刃区がしっかり有ったとしても実は茎の刃方をある程度磨って刃区を作っている物が多い。
今回の短刀は区下の茎が強く逆ハの字状となり、茎幅を狭めて居ない事がわかる。
研ぎ減りが極端に少ないため、寸の割に身幅が広くズングリとするも、フクラ枯れ振袖茎そして深い両区と、力強く美しい姿。

太刀でも短刀でも、研ぎ減って居ない古刀には区が異様に深い物をみる。
度々出会うその区の深さは、おそらく通常の現代刀よりも深い。
現代刀で異様に深い区に出会う事が稀にあり、見慣れぬ姿に違和感を覚えた事があるが、その作者は古刀をよく知っていたのかも知れない。



短刀研磨

鎌倉時代末期の備前物在銘短刀の研磨。
中直刃ですがそれなりの研ぎ減りがあり、腰と先の刃幅が落ちています。
地鉄は裏の元先以外や表の先に皮鉄が残り、その鉄はよく詰んで強く美しい地鉄です。
残念ながらそれ以外の多くの箇所は白い小傷が多く無地風の弱い鉄が露出しており、おそらく芯鉄と思われます。
短刀の場合斬撃で折れる様な使い方はしませんので、値段の高い皮鉄の節約のため、芯鉄を入れたという事になるでしょうか。
この短刀を見ても分かるように、皮鉄と芯鉄の美観差は大きく、コスト面を考えた上で美しい地刃の短刀を造るべくこの様な造り込みにしたと考えられます。
末~江戸期を通して数打ちなどには当時行ったと思われる埋鉄を多数見る事があります。
多い場合、1口に数十の埋鉄となるわけですが、非常に雑な埋め仕事にも関わらず、その埋鉄は発見しづらく見落とす事もしばしば。
それはどうやら刀の製作時に共鉄で埋めているようで、鉄質が完璧にあっているのです。
多くは平地や鎬地の傷を簡単な技法で埋めていますが、時には刃中にも埋鉄を見る事があり、それは焼き入れの前に埋めた物という事になります。
明治以前には刀の傷を気にする事は無かったとの説も耳にしますが、実は今と同様に傷を気にしていたわけです。