大磨上げ無銘刀
高松宮記念賞受賞作お披露目 北川正忠~刃文の優美~
古備前正恒
古備前宗安
30回。古備前派、宗安。
この太刀は、大阪歴史博物館館蔵品修復事業に於いて研磨をさせて頂いたものです。
同派を代表する刀工に友成と正恒がいますが、宗安は友成の弟或いは子とも伝えられています。
古備前らしく整う地鉄、きめ細かに小錵た明るい刃、そして注目すべきは刀身中央付近から切っ先へと明瞭な二重刃となっている点です。
二重刃は粟田口や延寿派などに見られる特徴ですが、古備前派の作品を通観すると(といっても図譜等での事ですが)、二重刃がかる作品が少ないながらも存在する事が確認できます。
粟田口則国
29回目になりました。山城物、粟田口です。
則国は粟田口六兄弟の長兄である国友の子で国吉の父といわれ、時代は鎌倉前期です。
現在「短刀」と称される形状の刀は平安時代末期頃には既に存在したはずですが、その多くは実用に供し消耗したと考えられており、当時の作品は三条宗近や豊後行平などに僅かに残るのみです。
しかしその次代に現れる粟田口派には短刀が多数残されており、鎌倉中期から後期には短刀の名手国吉と吉光を輩出しています。
本短刀は鎌倉時代前期の粟田口則国の作と極められ、刃長は八寸三分。内反りでやや厚い重ね。
全ての線と面が端正で、刃文、地鉄と合わせ、尋常ならざる名刀感を醸す短刀です。
一竿子忠綱
28回目は大坂新刀。
粟田口近江守忠綱二代目、一竿子忠綱です。
一竿子の乱れ刃は丁子や涛乱風などありますが、押形の刃文は互の目に湾れと後者の典型で、彫り物の配置を意識した焼き刃バランスとなっています。
一竿子の作品には三尺を超える物もありますが(重文三尺一分、重刀三尺七寸一分)、二尺~二尺二寸ほどの短い物も多く、本刀も二尺一寸ほど。
大坂新刀としてはかなり反りの高い姿で、小ぶりながら迫力のある作品です。
因みにこの刀は薄錆身で発見された品ですが発見当時彫物は固着した打ち粉と油で埋まった状態でした。
多くの場合、固着した油が酸化し発錆原因となる訳ですが、今回は幸いそれが保護膜となり錆を防ぎ、彫物が守られました。
陸奥守忠吉
27回目。唐突に肥前に戻ります。8回目と同じく忠吉家三代目、陸奥守忠吉。
全身押形のよいところをあげるとしたら、まず姿を把握しやすい点があげられるでしょう。
私、近年は切っ先と茎尻を同じ幅で押形採拓を行っていますが、それにより姿の把握がしやすくなります。
実際に刀を見て、腰、中程、先と、どの位置の反りが一番強いか、その刀が”何反り”かを掴むことは案外難しいものです。
しかし全身の表裏を描いた全身押形を見れば、反りを容易に把握できます。
今ブログでUPさせて頂いて居る押形でいうと、17回の龍門長吉は少し反りは浅いが腰反り、1回目の則縄は腰反りだが先まで力強く反る、7回目の近江大掾は反りは浅いが腰付近が反っています。
そして今回の陸奥守忠吉。7回目の近江大掾とは全く違い、輪反りに近くそして深い反りです。
全体に淡く映りがあり、刃中には金筋が入り、帽子も普段の肥前刀とは違い、総体に古い雰囲気を感じます。
肥前刀には度々古作の写しをみますが、この陸奥守忠吉も何か古作を狙った作なのかも知れません。
三善長道
26回目。前回に続き敷地神社(わら天神)様の蔵刀です。
長道の祖父長国は元伊予松山藩の刀工で、藩主加藤嘉明が会津に移封となりそれに伴従しました。以後三善家は会津の地で繁栄し新々刀期まで作刀を続けています。
初代長道の刀は卓抜の切れ味を誇り、江戸時代後期には業物位列に於いて最上大業物に選定されます。同じく最上大業物である長曽祢虎徹に作風が似ることから「会津の虎徹」ともいわれ、会津新刀を代表する名工です。
祐光
25回目になりました。敷地神社様の短刀です。
室町時代の備前物は初期応永頃の物を応永備前、永享頃を永享備前、室町時代も後期に入る少し前、応仁頃以降の物を末備前と呼んでいます。
銘鑑で祐光をみますと室町初期永享頃の祐光を初代とし以降多数の記載がありますが、祐光や同時代に活躍した則光なども含め末備前に分類する場合が多いと思います。
この短刀は、”わら天神”の名で親しまれ、安産祈願で有名な敷地神社(京都市北区)の蔵刀です。
奉納刀の可能性が高いと思われますが、いつ頃どの様な経緯で奉納されたか等、詳細は不明との事。
刃長七寸、無反り、重ねの厚い末備前の典型的作品です。