入鹿實可拝見。馬手差しのこと

IMG_2307
入鹿實可の短刀(さねよし/重要刀剣)を拝見する事が出来ました。
以前より重刀図譜では見ていましたし、「紀州の刀と鐔」にも所載で押形は頭にありましたが現物を拝見出来る日が来るとは。。

刃長26.8㎝(八寸八分五厘)
元幅28.1mm(庵頂点計測29mm)、元重4.5mm
内反り、三つ棟、茎鑢 銑鋤

拝見した瞬間、この短刀の持つ力というか、ちょっと異様にも感じられる程の印象に驚きました。
重刀図譜と「紀州の刀と鐔」、どちらも元から先まで押形で記録されてはいるのですが、上身のみの押形と、茎とフクラ下までの押形をセットにした所謂部分押形です。
この部分押形をずっと見て来たわけですが、今回初めて現物で全身を拝見、その姿に驚きました。

重刀図譜解説では時代を文亀とし、「紀州の刀と鐔」でもそれに従うとしていますが、姿だけで見れば少なくとも南北朝まで上げたくなります。
しかし銘鑑を引くと、文亀に加え応永にも實可を載せ、この応永の實可に出典として(重刀)と記してありますので、この實可短刀は時代を応永まで上げて考えてよいようです。
(「紀州の刀と鐔」の解説では「一見南北朝末期の応安ごろを想わせる姿であるが、はたして応安ころにこの實可がいたか否か疑問であるし、地刃も南北朝としては若いので、所伝に従う」とあります)

刃長に対し身幅がかなり広く、重ねは薄く、そして強い振袖茎、地肌は完全な柾目です。
「紀州の刀と鐔」の解説に応安頃を想わせる姿だと書いてはいますが、部分押形ではこの独特な姿は伝わりません。
改めて、全身押形の重要性を認識しました。

實可を手にし、記憶にある近い姿を辿りましたが、思い浮かんだのは重刀の延寿国時短刀や重要文化財の二王清綱の短刀です。
(調べてみると重文の清綱は刃長27.57㎝、元幅26mmで、国時もこれに近いです。實可は更に身幅が広く寸が詰まり、ずんぐり感が強い)
あの清綱短刀も振袖になっていますが、実は茎尻を摘まんでおり、切られる前はこの實可と同じ剣形茎です。

ところで、ずんぐりした印象以外にちょっと異様に感じるこの感覚はなんなのか、ずっと考えていたのですが。。
重刀図譜にもその他にも書かれていないのですが、実はこの短刀、馬手差しとして造られた短刀ではなかろうか、そう思うようになりました。

例えば左文字は「左」を表に、「筑州住」を裏に切るという事になっています。
新刀期の居住地と銘を表裏に切り分ける諸工も居住地は裏に切る例が断然多い。
この例に従うと、この實可も「實可」が表で「入鹿」が裏、即ち通常短刀という事になるのですが、
この實可、実は入鹿が表で實可が裏じゃなかろうか。
ちょっとややこしくなって来ましたが・・・。

「入鹿」を居住地としてでなく、一派の名称として冠していたと考えたり(「入賀住」と居住地として切る例はありますが)、或いは居住地を先に切ってもおかしくないでしょと考えたり。(通常は「入鹿實次」の様に書き下すのですから。)
色々調べてみると、居住地と刀工銘を表裏に切り分ける古刀期の刀工でも居住地を表に切る例もありました。(平造り脇差 表 能州笠師 裏 国長作)

さらにややこしい話になりますが、そもそも馬手差しですが、これがまたよく分からない物ではあります。
普通に左腰に差すのではなく、右腰、或いは右前や右後ろに差すのは確かだとは思いますが、柄を前にする、柄を後ろにする、柄を前そして柄が下を向く様に、柄を後ろにそして柄が下を向く様に、さらにはそれら全てに於いて刃が上を向くのか下を向くのか。

馬手差しは差し裏に銘を切ると言い、実際差し裏に銘のある短刀を過去数振り見ましたが、例えば通常通り左に差した短刀を帯から抜かずそのまま右腰にずらした状態が馬手差の差し方という説もありますが、これだと銘の位置は通常短刀と同じになります。
腰に差した時、銘は体の外側になる様に切るのが基本と考えたい場合で、馬手差は差し裏に銘があるのだと言おうとすれば、右腰に差し、柄を後ろにしたならば、刃は上ではなく、下に向けなければなりません。ややこしい。。

馬手差し拵えはめったに見ませんが、幕末の物は見た事があります。その拵えは栗形、返り角など全てが通常の逆になっているという単純な物でした。
法隆寺西円堂にはもっと古い馬手差し拵えが複数残っています。
これらは素直に全てが逆という物ではなく、返り角の位置が違います。
栗形は素直に逆なのですが、返り角が、通常は鞘の棟寄りに付く物ですが、全て刃側に付いています。
この拵えを右腰に差すと、柄を後ろに刃は下。或いは、柄が前、そして柄は下向きで刃は上向きです。
それにしてもこの柄が下向き説は本当でしょうか。私なら、どんなに鯉口を固くした所で、抜け落ちないかと気になって走ったり飛んだり出来ません。



簀戸国次

簀戸国次の刀(重刀)と平造り長寸の脇差を拝見。
「簀戸」とは地名や苗字ではなく、銘字の特徴から出た通称です。
国次は同名が数代続きますが、初、二代銘の国の字は”図”に少し似た特徴的な書体で切り、この字が庭の入り口などに作られる簡易な戸、”簀戸”に似ている事からそう呼ばれています。
作刀地は紀州の粉河。(和歌山市の東、紀ノ川沿いの地)
室町時代前期に入鹿の則實がこの粉河の地に移住し粉河鍛冶が発生、粉河寺に隷属した鍛冶と考えられていますが、詳細は不明のようです。

簀戸国次の刀は、移住前の入鹿鍛冶の作に比べると少しは多く残っているように思いますが、それでもめったに見る事はありません。
私もちゃんと記憶にある物は昔支部会に出た小ぶりな皆焼短刀だけです。(おそらく他に数振り見ていますが)
今回拝見した品はいずれも直刃。
刀は完全な柾目肌で脇差は刃寄りは柾ですが板目も目立ちます。
刀の方がより簀戸らしさが出ているのではないかと感じましたが、匂い口の締まった細めの直刃、刃は沈み気味で柔らかく、おそらく地刃の硬度さは殆どないと思います。
地には二重刃、三重刃風に沈んだ湯走りが掛かり、帽子は焼き詰めまでは行かずという感じで極浅く返ります。
簀戸国次は”簀戸”の名が知られていますので、入鹿とつなげて考える事がなかったのですが、今回この二振りを拝見し、完全に入鹿の作風である事が分かりました。
めったに無い、或いはまず無い、というところだとは思いますが、もしも初二代の簀戸国次が鑑定刀に出たら多分入鹿か簀戸国次に入札出来そうです。
ま、出ないと思いますが。。出たらいいのに。

昔鑑定に出た簀戸国次の皆焼短刀にどんな入札をしたのかが気になり、入札鑑定記を見ましたら2014年にありました。しかしこの時既に見知りで「いつか分かりませんが、昔出た事がある箕戸だと思う。 簾戸(箕戸)国次と入札。」と書いて当たりになっていました。
この時の”スド”の漢字は、おそらく得野一男先生の「紀州の刀と鐔」を参考に書いたのだと思いますが、今回のブログでは”簀戸”を使いました。



紀州へ

お仕事で紀州へ。
少々足を延ばし行ってみたかったところへ。

IMG_2291
こんな山里を抜け

IMG_2289
こんな山道を通り

IMG_2283
初めて来ました。入鹿鍛冶の里。
三重県熊野市です。って三重県だったのですか。和歌山だと思ってたら今googl mapで見て三重だと知りました。
この辺りは奈良と和歌山と三重が入り組んでいて、しかも和歌山の飛び地などもあって住所がややこしい。
この日は残念ながら雨でしたが、明るい集落です(平坦な集落は基本明るい集落ですが)。
思ってたより断然開けていて驚きました。
IMG_2284
着いたのが夕方で、既に閉館していましたが、この鉱山資料館には入鹿鍛冶の作品が展示されているそうです。

IMG_2281
入鹿郵便局!
”入鹿”の文字を入れたくて撮りました。
さっきgooglで見たら入鹿八幡宮があった。絶対そっちが正解です。。

ブログに沢山写真を上げる事はあまり無いですが、今回はちょっと嬉しくて上げてしまいます。
しかし滞在五分。また今度ゆっくり行ってきます。



日刀保京都府支部 4月入札鑑定

平成から令和への瞬間は刃取りをしながら迎えました。
新しい刃取りスタイルを思いつき試しましたが、この10年で一番の成果です。
誰かが研いだ素晴らしい研磨に出会ったとき、”この研師は凄い”と感じますが、そういう仕事を目指したいです。

 

入札鑑定

一号 刀(太刀か)

腰反り気味で踏ん張りも感じる。一文字風。錵が強め。丁子より互の目が勝っている。
非常に難しい刀。福岡一文字と入れそうになるも、違う。片山などか。
何度も見ているとそこまで時代はない事が分かる。

かなり迷ったがとりあえず島田助宗と入れてみる。

 

二号 太刀

鎌倉末期。
若干反り浅め。少し細め。鎬が高く重ねもある。
細かく詰んで大変良い地鉄。地斑映り。
中直ぐ調で若干逆がかり刃中よく働く。佩表の腰付近、保科家伝来の重文手掻包永風に湾れる部分が幾つか。
帽子は深く、来物独特の風合い。

来国俊か国光か迷う。来国光と入札。

 

三号 短刀

内反り。少し流れる。互の目。

多分最初10年程前に出た短刀だと思う。またその数年後にも出ていた物か。
昔は備前と間違えたが、今見るとやはり美濃。
兼常と入札。

 

四号 短刀

内反り。小ぶり。七寸台か。小ぶりで茎が大きく見えるタイプの末備前短刀だと思う。
広直ぐ調で刃中がよく働き、自然な風合いで大変良い出来。

この姿が末備前のどの時代になるのか、正確なところを私は分かっていないが、出来の良さから最上位の人に入れる事に。
与三左衛門尉祐定と入札。

 

五号 刀

身幅広めで鎬が高い。少し反る。中鋒。
板目杢目が少し肌立つ。直刃調だが互の目がかったり葉が入ったりとよく働く。物打より上は締まり気味。総体に少し小詰む印象。

何度も見たが、一号同様非常に難しい刀。最初は選択肢がなかったが、次第にいくつかの選択肢が。
伝の付く尻懸が一番。
めったに無い刀だが応永の青江に入れたくなって来た。
青江長次と入札。

 


イヤ


通り

 

二号、イヤ。これはショック。青江次直と入札。
五号、これかなぁ。法華と入札。

 


通り


 

二号、こんな名刀が分からぬとは、不甲斐ない。古備前正恒と入札。

 





 

一号 太刀  銘 相州住康国
二号  刀 無銘 雲次(重要刀剣)
三号 短刀  銘 兼常(関)
四号 短刀  銘 忠光(長船)
五号 太刀  銘 助国作(国分寺)(重要刀剣)

二号、後で思えば初見の所見が完全に雲次。しかし良い刀。
国分寺助国は法華の祖といわれ、過去3振り研磨させて頂いた事があるが、若干タイプの違う地鉄。在銘で大変貴重な品。

IMG_2173

 



春です

毎日の座り仕事は腰にきます。昔はどれだけ長い時間研舟の上に居ようが全く大丈夫でしたが、最近はなかなか辛いです。
やっと春になりましたので、時間を見つけ自転車で出かけるようにしています。
通った事のない細い道が楽しいです。
驚くほど奥まった場所に驚く様なお店があったりしますね。

毎回お店でコーヒーを飲むようにしていますが、美味しいコーヒーを出してくれるお店に出会うと嬉しいですね。
先日はそんなお店に出会うことが出来ました。
以前からずっと気になっていたお店ですが、あんなに美味しいお店だったとは。

昨日行ったお店はおそろしくぬるいコーヒーが出て来てまいりました。
私はコーヒーカップは薄手が好きなので、家では、少々大きいのですが深めのティーカップを使っています。
このお店は厚いマグカップのお店で。
そのぬるさは冷たいマグカップにそのまま注いだというだけでは説明がつかないほどで。
また美味しいコーヒー屋さんに行こう。

IMG_1968
普通の住宅街にて。門柱が砥石。ちょっと良さそうな石も入ってるし。
何故だか聞いてみたい。



日刀保京都府支部入札鑑定会

三月例会入札鑑定
 
 
一号 刀

詰む地肌。直ぐ焼き出し、大きめの互の目を複数で一塊、それを規則的に。

新刀祐定だと思う。上野大掾祐定と書いたが、これはもしかして過去に出ている刀かも知れないと思い始めた。
確か以前も上野大掾と書いて、結果別の新刀祐定だった気がしてきた。
源兵衛尉祐定と入札。

 

二号 刀

新刀か新々刀。反り尋常。地肌よく詰む。規則的な刃文。総体に焼き高い。
全く分からず。
加藤綱英と入札。
 
 
 
三号 脇差

鎬造り。腰に梵字。中から広直刃程度の焼き幅で、出入りの少ない互の目。
備前風。
多分過去に拝見しているはず。
二代康光と入札。
 
 
 
四号 脇差

鎬造り。切っ先詰まる。反り浅。肌立つ(研磨の影響が強い)。匂い口あまり深くなく、足少なめの互の目。
越前肌風と見ても差支えない様にも思うがわかり難い。
切っ先の詰まり方が少し代の下がる康継に見えるが刃の締まり方が違うように思う。
法成寺貞国と入札。
 
 
 
五号 脇差

平造り。詰む肌。互の目を湾れでつなぐ。少々焼き崩れ、それが景色となり華やか。意図的か。
刃取りを涛乱風や箱風にしている。
普段は本来の刃文を刃取りに引っ張られて見てしまう事は無いが、今回はどう頑張って見ても刃取りに引っ張られてしまう。
京都府支部例会の会場はバックに黒板があるので暗幕は張っていないのだが、やはり黒と緑では光の吸収が違う。大抵の刀はそれでも見えるのだが、研ぎによってはやはり見難い。やはり暗幕を張る様にした方がよさそうだ。
引っ張られるかどうか以前にちょっと迷う出来。
箱風に刃取っているので賀州兼若と入札。


イヤ


イヤ

二号は分からん。浜部寿格と入札。
五号 もう一つの候補、親国貞と入札。


イヤ


イヤ

二号難しい。継平と入札。
五号 肥前かぁ。播磨守忠国と入札。


イヤ



 
 
一号  刀 銘 備前国住長船七兵衛尉祐定作
        万治四年二月吉日
二号  刀 銘 坂倉言之進照包
三号 脇差 銘 備州長船康光
        応永十九年正月日
四号 脇差 銘(葵紋)康継於武州江戸作之
五号 脇差 銘 肥前国佐賀住正廣
 
 
四号は康継でしたか(ちょっと採点時の間違いで同然じゃないです)。
肥前刀で初見で肥前に見る事が出来なかったのは久々。しかし茎を見てから上身を見ると確かに正広。もっと精度を上げてみないとダメという事か。
IMG_1862



十津川郷採訪録

「十津川郷採訪録(林宏著)」(全五巻)は十津川村が吉野熊野総合開発によって生活文化が大きく変化する事を予想し、昭和34年に編成された調査団の記録です。
内容は大学ノート31冊分。それを活字には起こさず、記録ノートをそのまま写真版にしての発行です。
だからこその良さは沢山あるのですが、非常に読みにくいです。。興味のある箇所を見つけても、どの部分だったかを記録しておかないと、次に見つけられない。。

知らなかった事が沢山ありますが(というか知らない事ばっかり)、とりあえず河童は沢山いたようです。
河童、十津川ではゴウラ、ゴウラゴ、ゴウラボウシなどと呼びます。
ゴウラボウシのボウシは法師で、一寸法師などと同じ使い方です。
ゴウラに限らずホウシは今でも多様されます。「〇〇のホウシ」「〇〇ボウシ」など。
例えば「ジョウジ(私)のホウシ!」の様に。「あの野郎!」みたいなもんです。
十津川弁には古い言葉や言い回しが沢山残っています。
「男の人・女の人」なども「オトコシ(男衆)・オナゴシ(女子衆)」です。
若い世代ではかなり減ってしまっていますが、私の両親世代などはなかなかの濃さの十津川弁です。

河童の伝説は日本中にあるでしょうが、十津川郷採訪録に載っている大蛇(おおぐちなわ)の目撃情報の多さには驚きました。
伝説としてではなく、この調査当時の目撃情報として村内各所での話が多数記録されています。
長さについての記録は少ないですが、太さはビール瓶から一升瓶程度。
実はこれについては私も中学生の時、見たという話しを聞いた事があり、大体消防のホース程度を想像して頂いたら丁度よいと思います(おそらく長さは数メートル程度。ニシキヘビくらいでしょうか)。
普通なら嘘か大袈裟話にしか聞こえないでしょうが、おそらく本当にいたのだと思います。
なにしろ当時はまだ本物の秘境でしたので。

他に、「山鳥シダ」という記述に目がとまりました。
私は知らなかったのですが、「ヤマドリゼンマイ」または「ヤマドリシダ」と呼ぶそうで、ネットで調べてみると北海道から九州までの山深い所に群生し、珍しい植物ではないそうです。
ヤマドリゼンマイ
ヤマドリゼンマイ(山釣り紀行の管理者様よりお許しを頂き転載させて頂いております)

”山鳥の羽”よりも、この山鳥シダの群生が山鳥毛の刃文に一番しっくりきます。
yamadorizennmai



続き

歳を取ったせいか、田舎の事をもう少し知りたくなり、十津川郷採訪録(全五巻)という本を買ってみました。
私の郷里十津川村は”秘境”と呼ばれる事があります。
現代では秘境といえば聞こえは良いですが、生活する人にとっては不便極まりない僻地です。
しかし外に出た人間としては、ずっと秘境であって欲しい気持ちもある訳ですが。。

十津川郷が長い間秘境として存在した一番の原因は道路事情の悪さです。
「十津川街道」によると、十津川郷の南端まで道路が開通したのは昭和34年だそうです。
電気が来たのは昭和20年代の中頃。
「十津川街道」の中で、私の実家の隣の人が、電気が来る以前の生活の事を「それまでは江戸時代の暮らしじゃぁ」と言っていますが、大袈裟ではなく本当にそれに近い暮らしだったのだと思います。
私も母から電気が来た日の事を聞いた事がありますが、本当に嬉しい出来事だったそうで。
今でも度々秘境として紹介される事のある村ですが、現在では道路事情がよくなり、十津川村の秘境度はかなり下がっています。
しかし道路が通る以前、昭和20年代までの十津川村の秘境度合いは、現代からは想像が出来ない、本当の秘境であったはずです。

母は小学一年から、朝家を出る前に藁でワラジを2枚編み、1枚を履き、1枚は帰りのために持って行ったそうです。
食料は「高山幽谷、僻遠多くは不毛の地にて食に乏しく土民ども雑穀木の実をくらい・・・」の通り、主食は雑穀。サツマイモは御馳走の部類。
「”瓜根のキゴ”(黄烏瓜の根から採るデンプン)を、えずきながら食べた」という話をよく聞かされました。
そんな親ですので、私も小学2、3年の頃、コマ回しの紐をなくし、買って欲しいと母に頼んだのですが、「自分で綯(な)いなさい」といわれ細い麻紐を綯ってコマ紐を作ったのを覚えています(私もワラジの作り方は教わっていて、遊びでビニールの荷造り紐を綯ってワラジを作って履いたりしていました)。
でもねぇ、硬い麻紐じゃぁコマは上手く回らんのですよ。。