日刀保京都府支部入札鑑定・新年会

1月は新年会なのでいつもの三木半旅館で。
三木半は笑福亭鶴瓶さんや、あのねのねさんがバイトをしていた旅館です。

1号 刀
肥前。長い。二尺五寸超か。反り浅めで身幅広い。重ねは身幅に比して若干薄め。詰み過ぎない地肌。大互の目を直ぐ調につなぐ。錵が凝る箇所が点在。
茎が細らない嫡流にはこの様な大きな物があると思うが、正広・行広の方がこの造り込みは多いと思う。が、正広・行広の判別法は分からず。
河内守正広と入札。

2号 刀
反り浅。焼き幅広く、刃中の錵方が著しい。互の目と丁子で刃中複雑。帽子は綺麗。返り少し広く少し長い。
沸え深さが親国。しかしいつもと違う気がして迷う。思い切って変わった札を入れたくなってしまった。
御勝山永貞と入札。

3号 刀
少々反る。よく詰む肌だが詰み過ぎず良い鍛え。焼き出し長く、それほど高くない完全匂いの丁子。少し風変りな刃調。
ちょっと迷い、何度も見ていたら風変りには見えなくなった。
この反り方や焼き出しと、特に良い鍛えなのでこの人か。
横山祐永と入札。

4号 平脇差
江戸か大阪の新々刀丁子。入札が苦手な刀です。。
寸延。身幅広く重ね厚い。非常によく詰む地鉄。淡く映り。頭が完全に揃う丁子。ニコイチ、ニコニコなど。足は長くない。
ちょっといい加減にこの辺を整理して覚えよう。
同然表を見て適当に。加藤綱英と入札。

5号 平脇差(短刀か)
寸長め。それなりに反る。詰み気味の板目肌で流れる。棟寄り映る。表裏揃い気味の互の目。藤島風のピョコ刃を素直な匂い口で。千子の刃調。
大振りなので。
千子正重と入札。


イヤ


イヤ

2号 でしょうねw 親国と入札。
5号 当たりと思ったので驚いた。平安城らしくはないけれど、これしか無い。平安城長吉と入札。





イヤ

5号 美濃しかないですね。個銘は分からず。蜂屋兼貞ってこんな刃文はないのでしょうか。兼貞と入札。





1号  刀 一 肥前国出羽守行廣 以阿蘭陀鍛作
2号  刀 和泉守国貞(道和銘)
3号  刀 横山加賀介藤原祐永 天保十四年八月日 
     (菊紋)一 備陽長船郷
4号 脇差 備前介宗次
      弘化四年十月日
5号 脇差 関之住兼舟

2号は親国貞の草書銘で所謂「道和銘」。そのせいで少し作風が違っているという事かも。
4号は辻本先生曰く、この帽子は固山しか無いとの事。
次回からは、とりあえず丁子の新々で映りが有れば固山に入れよう(そんなんじゃダメですか。。)。そういえば宗次って研磨の経験が無いかもしれない。宗寛はあったと思う。
5号は1札目で美濃に行かれている方が何人か。
何故美濃に?と聞きましたら「千子だともう少し地鉄が強い」と。ん~確かに。でもかなりハイレベルな鑑識。
あの刃に引っ張られると必ず千子に行ってしまう。地鉄の差に気付くにはかなり冷静な判断が要ります。
・判者さんから、正重と長吉は同然なのでと、5号に+5点いただきました。





力のある拭い

今回は過去一番に力の有る拭いが出来ました。
加減をしなければ濃く入り過ぎます。
鉄肌100%。20代の頃に初めて出会い、ずっと理想としてきた物です。
出来た物は過去最良なのですが、原因が分からずです。




晴明神社

西陣舟橋の直ぐ南、晴明町には「晴明神社」があります。
古い資料によると創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったそうです。地図で確認すると、この面積は今の二条城の半分近くあり、本当に広大な敷地です。

2023年の晴明神社様の修復事業に於いて、ご所蔵の刀、長船祐定の研磨をさせて頂きました。
写真は本能寺様での押形展示の様子です。
重ねが厚く大変健全な祐定です。
ご由緒|晴明神社 (seimeijinja.jp)



西陣舟橋

せっかくなので行ってみました。
雪もちらつき、今年で一番寒かったかもです。。

西陣舟橋の石標がありました。

この地に埋忠家があったそうです。
因みに、同地には本阿弥家もありました。
「特別展 埋忠 桃山刀剣界の雄」図録によりますと、西陣の古地図を示した上で以下の様な記述が。
『舟橋一帯にひときわ大きな敷地と複数の区画を占めていたのは、貼紙にある「本阿弥」一族であり、そこに埋忠の貼紙は無い。もちろん、貼紙で名前が付される家の方が圧倒的に少なく、これは埋忠家が地図に書き入れるべき家格ではなかったと解するべきである。』
示された古地図には本阿弥の貼紙が多数あり、広大な敷地だった事が分かります。
埋忠と本阿弥の家格、そんなにも違うものだったのですね。。

堀川今出川を少し西に行き、適当な細い道を南にぽこぽこ歩きます。
少し下がった所に上杉景勝屋敷跡がありました。

全然詳しくないのですが、たまにこうして写真に撮る事も。
で帰ってから知ったのですが、「城州埋忠作 文禄二年十二月日」の10筋揃いの重文のあの槍(元は20揃いでしたが戦後米軍に持ち去られ行方不明に)、景勝が自邸に秀吉を招いた際、秀吉から贈られたものだそうです。

Googleアースで距離を測ると西陣舟橋の石標から直線で370メートル。
やぁ色々関係が面白いですねぇ。

そういえば、現在押形出張採拓中の重文太刀は上杉三十五腰の一つです。あの太刀もこの上杉邸に在った事があるのでしょうか。。