金房

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大太刀、無銘 伝金房(本能寺蔵)

21回目。
室町時代の大和物に金房一派があります。
この派の詳細は不明ですが、手掻系といわれています。
作風に大和色は薄く、末備前や末関、平高田などに似る作を多く見ます。

この太刀は刃長三尺四寸六分と長大です(茎先を切断しています)が、重刀指定の金房の作に類似の品が数点あり、種別はいずれも薙刀です。
本太刀も種別を薙刀にと思いましたが少し気になり、大太刀を多数所蔵する日光二荒山神社の「二荒山神社男体山頂鎮座1230年記念 宝物館開館50周年記念 宝刀譜」(平成24年)を確認をしました。
宝刀譜にはこの太刀と同形状の物を多数所収(寸はもっと長大な物が多い)、それらは全て大太刀と記され、また小川盛弘先生の解説に「長巻の柄が付けられた大太刀」との一文があり、やはり本刀は大太刀とすべきかと思います。【長刀(なががたな)とする場合もあるようです】

長巻の名称が出て来ましたので、薙刀と長巻について少し。
「長巻直し」「薙刀直し」という名称がありますが、 愛刀家の間ではこの区分が曖昧で、協会でも数十年前までは用語が統一されていなかったようです。

重要刀剣指定品には、薙刀形状の造り込で茎を切り詰めて刀に直した物が多数あります(横手の有るものと無い物両方を含みます)。
第1回指定品~60回辺りまでを確認したところ、第26回頃までは、同じ形状でも、「長巻直し」と「薙刀直し」の名称が混在していました。しかしその頃を境に「長巻直し」の名称は消え、全て「薙刀直し」に統一されています。

過去、刀剣美術誌上で、長巻と薙刀の違いについての論考が発表された事もありましたが、結論を明確にはしていませんでした(1987年刀剣美術誌第368号、「長巻と薙刀の相違点」辻本直男)。
しかし二荒山神社の宝刀譜では小川盛弘先生が「長巻=拵え名称」との見解を示されている通り、現在ではその様に考えられています。
また最近では京都国立博物館で開催された「京のかたな展」図録巻尾の用語集にも以下の通り記されています。(この用語集は単に過去用語の使いまわしはせず、今回の図録用に検討し収録されています)
【薙刀(なぎなた)】長柄武器の一つ。長大な棒状の柄(え)に刀身の茎を差し込んで固定する。長巻との分別は刀身部の形状ではなく、拵えによる。
【長巻(ながまき)】長柄武器の一つ。片刃で、長大な柄(つか)に刀身の茎を差し込んで固定する。薙刀との違いは刀身部の形状ではなく、拵えによる。

最後に、余計ややこしくなるかも知れませんが、一応書きますと。。

・薙刀状の刀身は横手の有無に関係なく全て「薙刀」。
・薙刀を刀に直した物は横手の有無等関係なく全て薙刀直し(「長巻直し」との言葉は現在は使用しない)
・薙刀拵入り薙刀は刀身と拵を合わせて「薙刀」。
・長巻拵入り薙刀は刀身のみをいう場合「薙刀」、拵は「長巻(長巻拵)」。
・長巻(長巻拵)に刀身(薙刀及び大太刀或いは長刀(なががたな))が入ったものは刀身と拵を合わせて「長巻」。

※長巻拵えとは、長い柄を細縄や革で巻いたもの。
※刀身は通常の刀形状で、茎が薙刀の様に長い造り込みの物を現在協会では長刀(なががたな)と呼称しています。

本能寺



包行(末手掻)

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短刀、銘 大和國住包行
     寛正ニニ年十一月日

20回目になりました。
また大和本国に戻り、末手掻の包行です。
室町時代に入り大和各派は衰退します。尻懸は則長と銘のある室町期の短刀を時折目にしますが、多くは数打ちと思われる物です。
また無銘の極めに「末保昌」とある品を見ますが多くはありません。
保昌の通字「貞」を銘鑑でみると室町時代に、貞清、貞次、貞光、貞材の記載があり、彼らが少ないながらも作刀を続けていたようです。
そんな中、大和五派中唯一手掻派が盛んに作刀を続けます。
銘鑑で手掻の包某を調べると室町期だけで90人を超え、包某以外の銘も多数あり、その繁栄ぶりがうかがえます。



直江志津

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刀、無銘 直江志津

19回目です。
前回は手掻でしたが今回は直江志津。
大和手掻包氏が美濃国志津に移住し兼氏と改名、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍し一門が繁栄しています。その二代目以降及び一門の総称が直江志津です。
直江志津に関連する呼称がいくつかありますので以下に整理します。
因みに刀の世界では「志津」「直江」と刀工名の様に使用していますが、志津、直江は元来地名です。志津から直江へは電車で二駅ほど。近いです。(行った事はないです。例によりgoogl map。楽しいので確認してみてください)

志津=手掻包氏美濃移住後の名称(志津三郎兼氏)。大志津。

大和志津=兼氏の大和在住時代の名称(大和在住包氏時代の作は全て無銘)。包氏美濃移住に追従せず大和に残留し、その名跡を継いだ鍛冶の名称(広義大和志津。この後代包氏在銘作は現存しますが初代包氏在銘作は未発見)。

直江志津=兼氏の門葉は直江に移り住み栄えますが、二代以降の兼氏及びそれらの総称。直江。

押形の刀は大摺上げ無銘で、反り頃合いに中鋒が伸び、身幅広く重ねが若干薄い南北朝時代の姿態。板目に刃寄り柾、刃文も典型で直江志津の良刀です。



包真(手掻)

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刀、(金象嵌銘)包真

18回目は大和手掻です。金象嵌銘で包真。
室町時代の手掻派の作品は末手掻とよばれ、包真も通常末手掻に分類されますが、包真初代は包永門で時代を康安(南北朝期)といいます。
大和五派は室町時代に近づくと大きく衰退し、保昌、尻懸は辛うじて作品を残しますが、千手院、当麻はほぼ消滅(移住など)、唯一手掻派のみが盛んに作刀を続けます。
その末手掻の作品も大和色は次第に弱まり、柾肌は目立たなく、造り込みも尋常な物へと変化して行きます。
押形の包真ですが、柾肌こそ目立ちませんが、身幅広く、鎬は高く広く、未だ大和物然とした姿態を残す作品。
砥当たりも柔らかで、地味ながら味わい深い直刃を焼いており、南北朝期は下らないものと見てよさそうです。