古青江

古青江の守次×2,為次、貞次、包次、行次、無銘古青江と妹尾行国を鑑賞。
古青江の地鉄は縮緬肌と呼ばれる独特の風合いが特徴で、誌上鑑定では「独特の肌合いを呈し」などの様に、暗に縮緬肌と分かるワードで古青江へと誘導されるため、入札はそれほど難しいものではありません。
しかし刀の茎を隠した実際の入札鑑定では、地鉄の質感を自らの感覚で的確に判断しなければならず、それを根拠に古青江へと入札をする事は難易度が高いと感じています。
研師なのに今さら縮緬肌が難しいなどというのはちょっとどうかとも思うのですが、私は苦手で。。
今回も縮緬肌を感じようと意識を高めて鑑賞しましたが、やはり難しい。
古青江前提で見るので縮緬風を感じるだけで、古青江と知らずに見たらそうは見えないのではないか?また、古青江だからそう見てしまっているだけで、実際は他の同時代の地鉄と差が無いのではないか?などなど色々思ってしまい。
ただしかし独特の風合いがあるのは確かで、もっと感覚の解像度を上げて鑑賞の経験を積む必要がありそうです。
研ぎ疲れが原因の肌荒れ状態に関しては、古青江と他との違いは分かりやすく見分けがつきます。その原因が材料なのか製作工程によるものかは不明ですが、縮緬肌とも関係しているのかも知れません。



入鹿(2)

近年新たに出現した入鹿短刀の押形を採拓させて頂きました。
もしやと思い調べてみると光山押形に掲載の御品でした。尊い。

以下所見。

短刀 銘 □鹿住藤原實□(入鹿住藤原實綱:光山押形所載)
刃長 25.5㎝(八寸四分二厘) 僅かに内反り
元幅 22.3㎜(含庵23.7) 元重 6.3㎜(茎最厚部 7.1㎜)
目釘穴2 
鑢目:筋違 茎棟:角(鑢不明) 刃方:角(鑢不明) 茎尻:栗尻
棟:庵棟
地鉄:小板目よく詰み、強く流れ、ほぼ柾目に見える。焼き込み部から焼き出し映りが強くでて先に向かい全身に広がる。
錵映り風だが粒子が細かく白け映りに近い。柾状に流れる映りの中に、流れる暗帯がある(入鹿肌)。
刃文:直刃に浅い湾れ。フクラ先に飛び焼きかかる(*力玉)。差表、頻りに棟角を焼く。
帽子:直に小丸。

銘の切り出しが区下の高い位置から始まるため、一字目の「入」は摩滅。最後の綱の字は朽ち込みで判読しづらいが、糸編の一部が残る。
光山押形でも既に「入」の字は消え、「綱」も朽ち込んで判読が難しくなっている状態が記録されており、状態は当時とほぼ変わらないと思われます。

短刀 銘 □鹿住藤原實□(入鹿住藤原實綱)
石華墨では銘の擦り出しが困難だったため、カーボンの採拓銘を加えています。

銘鑑に掲載の入鹿派の刀工は以下など。

在実(文明)
入鹿(時代不詳)
入鹿(応永)
入賀(時代不詳・数人あり)
景貞(永享)
景貞(応仁)
景貞(大永)
景実(応永)
景実(永享)
景実(文明)
景実(永正)
景綱(応永)
景宗(貞治)
景光(至徳)
景光(文正)
景光(明応)
包貞(文保)手掻の人で入鹿派の始祖という。
包貞(正慶)
兼実(大永)
定次(正長)
貞実(文安)
貞綱(天文)
貞宝(文明)
実重(延文)
実高(永正)
実次(永徳)
実次(応永)
実次(嘉吉)
実次(大永)
実次(永禄)
実継(文明)
実継(永正)
実綱(応安)
実綱(応永)
実綱(長録)
実綱(文明)
実経(永享)
実経(永正)
実就(応永)
実延(文明)
実弘(応仁)
実弘(永正)
実正(永禄)
実守(応永)
実山(文明)
実行(応永)
実行(永享)
実世(応永)
実世(応仁)
実世(永禄)
実可(永徳)
実可(応永)
実可(文亀)
実吉(明応)
実善(応永)
実能(永正)
真勝(天文)
真重(応永)
真高(永正)
真弘(永正)
真行(長録)
椙法師(応永)
俊実(天文)
仲国(正応)
仲国(長録)
仲国(永正)
仲真(正応)
仲真(応安)
仲真(長享)
仲次(時代不詳)
仲宗(時代不詳)
入西(時代不詳)
則実(永享)
則実(天文)
紀州住太作(時代不詳)
光長(応和)
本家(建徳)
本実(応永)
本宗(文和)
安定(天文)
康実(享禄)
賀実(永享)

上記中、上の字が實で下が糸偏の銘は実経・実継・実綱の三工ですが、現存数などから考えても實綱でよさそうです。
時代が下がると入鹿も特徴が薄れ、入鹿肌も見られなくなりますが、今回出現の實綱は入鹿肌も明瞭で、室町初期をくだらないのではと感じます。

實綱含めその他の入鹿押形。

入鹿實綱
入鹿實可
入鹿實次
實守
紀州太作
紀州入鹿村實綱作

*光山押形には書き込みがあり、崩しているので私には読みづらいのですが、とりあえず読むと以下の通り。
「刃造直ハタメスクナシカヘリ飛テフカシボウシノ所フトキ打ノケ 力玉トミユル物アリ 三枚五」
直刃で肌目は少ない。返りが飛び棟を焼き下げ、深い帽子に太い打ちのけと沸玉を焼く個所がある。こんな事なのでしょうか。。
その通りの出来です。




入鹿(1)

入鹿庄ご出身の方から、紀州鉱山で採掘された鉱石を頂戴しました。
なんとお父様が紀州鉱山の職員をされていたそうで。
この地域からは様々な鉱物が採れ、紀州鉱山では銅鉱石などが採掘されていたそうです。
入鹿鍛冶が好きな私は入鹿に所縁の物を手元に置けて幸せです。ありがとうございます。
入鹿鍛冶は地元で採れる原料を使い作刀したからあの独特の作風になっているのでしょうねぇ。。



馬手指(二)

「法隆寺西圓堂奉納武器」の図版に載る馬手差拵を数えてみましたら、鞘だけの物と拵全体が残るものを合わせると18口ありました。(西円堂に残された刀剣類は総数6500口ともいわれますが、図版に載る拵(鞘のみ含め)は300に満たないと思います。馬手指拵といわれる物は掲載品以外にもあるのかも知れません)
それぞれのサイズや解説などは有りませんので見た目判断ですが、完全な短刀サイズと思われる物は5口。寸延び程度のサイズが6口、完全に脇差サイズと思われる物が7口でした。
この西円堂に残る馬手差拵で注目すべきは鞘に付く返角の位置です。

図1

通常の拵に返角が付いた場合、図1の様に鞘の棟側に付きます。(短刀や脇差の場合もう少し鞘幅の中寄りになる場合が多い)
これが馬手差になると全てが反転するということで、図2の様に想像するところです。

図2

しかし実際は図3の通り。

図3

単純に全てが反転するのではなく、返角は刃側へと移動するのです。少なくとも西円堂の図版に載る物は全てこの仕様となっています。
この様に刃側に返角が付く事で、右腰(或いは体の前側に)に差した場合、刃を下に柄が後方にという事になります。
ただ、短刀サイズならばその様に差して抜くことが可能ですが、こんなに長い刃長の脇差を柄を後ろに右腰に差し、それを右手で抜くなんて無理なんです。
ということで、この馬手指といわれている脇差、実は刃を下にして左腰に差した物じゃないでしょうか。
「打刀拵」に大小の半太刀拵で刃を下にして差すタイプの掲載がありますが、あれの類似品ということで。
あ因みに、私武術の嗜みはありませんし、甲冑を身につけた事もありません。刀を振った事もないですね。ちと説得力に欠けますなぁ。。