また昔の刀剣美術の話ですが、
昭和32年・第45号 「江・おそらく などの呼び名の由来」 辻本直男
三、「おそらく」助宗の短刀
(以下引用・前略)”おそらく”の意味については、「かかる異風のものはおそらく他にあるまい」ということを略したものだとするのが通説の様である。
「大飯くらいで大酒飲み、そして大餅くらい、そんな者はおそらくあるまい」などの言葉と結びつけて面白く説明されてもいる。 処が私はおそらく造りの”おそらく”は、おそらくそういう軽い意味だけのものではあるまいとし、一個の見解を打出してみたいのである。
ここで再びこの短刀の姿に眼を向けて見ることにしよう。 これは本来馬手指(めてざし)、即ち右手の腰指しで組討の時最後にこれで相手の首を掻く為に考案されたものである。 従って、「突くによし、斬るによし」という点を十分考慮にいれてこの形はつくられている。 先にも触れた様に、これは細身で先はあくまで細く鋭く仕立て、しかも鎬を設けて頑丈さの点にも心をくばり、更に帽子の刃は先が尖りやや深めに返る様に焼かれ、これにも強い鋭利感が伴っている。かようにしてこの短刀はすべての点に於いてするどく迫るものを蔵している。
さて、昔の言葉に”すらく”と言うのがある。 これは”する”を延ばしたものであって、「殺さむと”すらく”を知らに」という例が松井簡治博士の国語辞典に載っているが、それは「殺そうと”する”のを知らないで」ということである。それと同様にこの”おそらく”も”おそる”と言う言葉を延ばしたものであると考えられる。 右記の国語辞典にはその用法が挙げられている。今、戦国の世に身を置き、この短刀を擬して我が咽喉元に迫って来られた場合を想像されよ。さぞ身の毛もよだつ思いがするであろう。又逆に敵に向かった場合はその鋭利な姿に接すると相手方は心も空にただただ”おそれいる”であろう。これは普通形の短刀とは比較にならぬ程「おそるべきもの」なのである。「おそらく」の文字は、この短刀のもつかかる機能の鋭さを表現し得て余す処がない。 ”おそらく”は”おそる”であり、これについてかように考えることこそ正当の意味付けではあるまいか。後世の模索には、たとえ「おそらく」の文字を刻することは同じであったにしても、実に鋭利感を失った鈍い姿となっているのを往々見受けるが、それは全く本義を忘れ去ったもので遺憾な事である。
(引用終わり)
私の場合、年に1、2振りほどおそらく造りを研磨させて頂く事があります(一年間全く無い事もあります)。
上記の内容については昭和32年当時に発表された物であり、私はその後を知りませんが、おそらく造りを研磨させて頂く上で、大変参考に成る内容です。
フクラをいかに枯らせるか、三つ頭、刃三つ角を明確に出せるか、などなどおそらくを研磨する上で色々重要なポイントが有りますが、考えの根に”おそるべきもの”と言う事を置くと自然に体も動いてくれそうです。