藤島

古刀期の加賀国には藤島一派が居ます。一派とは言いますが、では誰がいる?と考えてもパッと出てくるのは友重ばかり。
しかし先ほど銘鑑で見ると友重以外にもかなりの掲載があったので、それはまた後日。

さてその藤島の刀ですが、私はやけに沢山あるなと感じています。
研磨した数でいうと、おそらく豊後刀よりは多い。そしてもしかしたら関物よりも多く研磨しているかもしれません。
豊後や美濃といえば刀剣の量産国として知られ、銘鑑の古刀期の刀工分布図によると、美濃は備前に次ぐ2位、豊後は山城、大和、備中に次いで6位の刀工数を誇っています。で加賀はというと、14位。筑前の次、肥前の前です。肥前の古刀って誰よ。。
この「刀工数」というのはあくまで刀工の数であって、刀の生産量ではありませんので、生産量の順位がそのままではないかもしれませんが、おそらくこの順位に近いものになるでしょう。
藤島が多いというのも、単に私の環境から来るところが大きいと思いますので、実際の現存数は美濃物より多いということは絶対にありません。が、肌感としてかなり多く感じるのも事実。
在銘も多いですが、もしかしたら無銘が多いので研磨の機会も増えるのかもしれません。
藤島の刀は造り込みに特徴があり、仮に磨り上げ無銘の真っ赤錆で地刃とも一切見えなくても、研ぐ前に藤島とわかる物も多いです。
そして研ぎ上がった無銘藤島を見ればかなり古く見てしまう人も多いかも知れません。
実際複数回経験があるのですが「〇〇先生から”備前の古いところだから買っておけ”といわれ購入し審査に出したが備前にならなかった」と審査に不満を持たれ、拝見したことが。「結果は藤島ですか?」とお答えすると、あぁ・・・。
藤島は短寸で反り深な物も多いですが、結構長く南北末期頃の太刀風の物も度々みます。そのタイプなどは古い本国物の偽材料にされやすいですし、短寸の磨り上げ無銘もかなりの数存在しますから、それらも悪意で仕立てられた物が多いのかも知れません。



保昌と南北相州物

が特にどうしたという訳ではありませんが、保昌と相州生ぶ在銘南北年紀と、広光寸延びの全身押形を採拓。
南北年紀の物は小太刀。まだ採拓中で片面の5割程度。かなり激しい皆焼ですが、「基調は大倶利伽羅広光に似ているかも」と大倶利伽羅の押形採拓を思い出しながら作業を行っていました。
皆焼の時は毎回言っているかもですが、今回こそ本当に薄墨サラサラで済ませます。多分。

保昌も沢山見るうちに、「保昌」と「末保昌」の違いが自然と分かります。
そういえば、大磨上げ無銘の完柾刀に「包清」の極めがあてられた物を幾つか見た事がありますが、あの意味を理解せず来ています。
久々に見てみたい極めですが、今もあるのでしょうか、完柾の包清極め。
極めといえば・・・。
一般に流通する刀ではなく、本当に眠り続けていた刀を大量に見た時などは、無銘の極めにはちょっと思う所があったりします。
古研ぎ薄錆身 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
↑この様な事例には度々出くわす訳ですが、新刀・新々刀の著名でない刀に、大変古く見える刀が必ずあります。そしてその人達は仕事も丁寧でとにかく上手い。
上のブログはもうかなり前のものですが、今でもそれは変わらずです。
長期間眠っていて突如出現するのでたまたま在銘のまま残されていますが、普通は磨上げて化けちゃうわけです。

これとはまた性質がかなり違う話ではありますが、「五ヶ伝」という分類方法は、便利だしよく出来ていて、なるほどなぁ~と思う事が非常に多いです。しかしこれだけではどうも説明がつかないというか、納まりきらない事も多々あるわけで、その辺については「大三島の太刀」で小笠原信夫先生が仰っている事に答えがあり、なんでも決め過ぎず、おおらかにみる事も肝要かと。




閑谷神社の長谷部国信太刀

また気になり、今朝改めて調べると簡単に見つかりました。以前もデジコレ見てたはずなんですが・・・。

MUSEUM136に寒山先生による詳細が。
『長さ88㎝、反り2.9㎝、元幅3.28㎝、先幅2.28㎝、鋒長5.75㎝茎長22.2㎝
鎬造、庵棟、身幅広く、鎬幅が狭く、鎬は特に低く、重ね薄く反り浅く大鋒となり、鍛えは板目、所々に流れごころの大肌が交じり、地錵付き地景が入っている。刃文は中直刃調に僅かに小湾れが交じり、ほつれて、足入り、砂流しかかり、小錵がよくついている。帽子は乱れ込、先は掃きかけ、金筋かかり錵付き、裏は小丸に返っている。そして表には二筋樋、下に梵字二つ、さらに下に三鈷剣の彫物があり、裏には二筋樋、下に梵字二つ、さらに籏鉾の見事な彫物があり、茎は生ぶ。先刃細って栗尻となり、勝手下がりの鑢目が立ち、目釘穴1、長谷部国信と細鏨で大振りの五字銘が鮮明で、部の字の口のところに目釘穴がかかっている。そして生ぶの見事な鉄鎺がつき、白鞘入りである。』

因みにこの太刀、明治に池田家から納められた物ですが、登録証問題などもあって東博が買い上げたそうで、往昔抄と光山押形に所収。
両書を確認すると確かにありました。往昔抄に掲載の品ってかなり珍しい。
大分スッキリした。東博で展示があれば見てみたい太刀です。



長谷部

先日在銘長谷部某短刀の全身押形を採拓。いつもの長谷部らしい白く肌立つ地肌です。
白熱灯で見ながら、差し表は刃棟が柾がかるのではなく完全な柾なので少し疑問に思いながらも、時間も無い事だし・・・これも有りかとそのまま進めました。
やはり気になり国重、国信、国平の平身重刀ほぼ全ての地鉄を調べた結果、完全な柾目はゼロ。一つだけ片面ほぼ柾目という物があるのみ。
で改めて実刀を蛍光灯でよく見ると、差し表は一見ほぼ柾目ですが、仔細にみると板目交じりで柾気が特に強いという出来でした。
白熱灯で透かして見ると板目が見えず柾目だけが見え(目が刃に引っ張られることもあって)、保昌の様に区に寄らず茎から素直に先に向かい、そして先で棟に寄らず帽子に消える白い柾目が目立つだけで、蛍光灯だとまた違う見え方に。無冠で私見ですが銘も出来も大丈夫そう。

先月採拓した長谷部国重脇差は少し代が下がり南北末期乃至応永の国重。長谷部の銘も様々で、一番多い国重を見慣れた目で見ると相当な違いを感じる銘です。鎬造脇差で、出来は上杉三十五腰の唐柏(長谷部国信)に代表される長谷部の長物のあの出来。(長谷部長物は地鉄が詰み匂い口整う)
以前支部会で使用させて頂いた特重の長谷部国信の太刀も唐柏同様の出来でした。

そうその時長谷部太刀の事を調べていて、確か小笠原信夫先生の「長谷部国重についての一考察」などによると国重・国信ともに長い物は6口づつの現存だった様に思いますが(ちょっと曖昧な記憶で書いてます)、その中に国信の大太刀(刃長87.6㎝)がある事を知り驚きました。「長谷部国信に大太刀?聞いた事無かった!」って感じです。それで色々調べるのですが、全然出て来ず。。
さらに調べるうちに、寒山先生達が(確か備山さんも加わっていたか)岡山の山奥の閑谷神社という所に長谷部の大太刀が眠っているという話を聞き及び、半信半疑で見に行ってみると正しく長谷部国信の大太刀だったという記事が刀美に。さらに調べるとその後本間先生のお世話などにより、東博が買い取っていた次第。(正確な時期もありましたが失念)
その大太刀がどうしても知りたく、しかし東博の出陳履歴なども分からずでしたが、平成11年の岡山県博の「日本刀五ヶ伝名刀展」に岡山県閑谷神社伝来品として東博蔵の長谷部国信大太刀が出されていた事を知りました。東京からの里帰り出陳です。
そしてしばらく探すとその時の図録を入手出来、そこでようやく気付いたのですが、何度も何度も見ていた名品刀絵図聚成の唐柏の横に参考押形として掲載の茎押形が、その閑谷神社の大太刀押形だったんです。名品刀絵図聚成では唐柏の茎とほぼ同サイズに縮小されての掲載なので(多分縮小)、まさか大太刀の茎とは気づかず・・・。唐柏の名刀鑑賞項にも同様に掲載なので、今まで何十回みた押形か分からんのですが、気付くまでの労力たるや。。
(87.6で通常いう大太刀定義に届いていませんが、この太刀を「大太刀」としている物が多かったので大太刀と書いてます)

しばらく前に、重文長谷部国重、重文秋広、重文左文字、特重在銘正宗、重刀長谷部国信×2、重刀無銘長谷部他関連6口を並べて鑑賞させて頂いた事がありました。改めて、長谷部というやつは面白いと感じ。
こう言っちゃなんですが、長谷部の短いやつは、地肌ガサガサでなんでそんなに評価高いの?とずっと不思議に思っているんです。20代の頃から。
なんで長い物は短い物とそんなに本質的違いを見せるのかとか。大和出自説(当麻の長有俊の”長”は長谷部の略の事なども)や新藤五との関係など、分からん事が多いのも魅力の一つ。