京都府支部入札鑑定会

今回は当番でしたので、平安時代~江戸後期までの刀を集めさせて頂きました。

1号  刀 無銘(五条)      (重要刀剣)
2号  刀 額銘 国俊(二字国俊) (国指定重要文化財)
3号  刀  銘 肥前国忠吉
4号 短刀  銘 源清麿(年紀入り)(重要刀剣)
5号  刀  銘 平信秀      (重要刀剣)
         文久三年二月日

1号 五条
2号 二字国俊
3号 忠吉
5号 栗原信秀

この度も大切な御刀を京都府支部入札鑑定会のためにお貸しくださいまして、誠にありがとうございました。



全身押形 新しい時代の備前様式

刀、銘 備州長船住横山祐包(石切劔箭神社蔵)
    明治三年八月日

刀、銘 瑞泉堀井俊秀 (花押) 
    冨岡清行所持 昭和十二丁丑二月吉日

太刀、銘 加賀国住正峯 於傘笠亭作之 思飛鎌倉期 漂一文字上
     昭和丙午年二月

新々刀の地鉄を”鏡肌”などと呼ぶ事がありますが、大変よく詰んだ肌を表す言葉で、押形の祐包や祐永など横山一派にも見られます。
この地鉄により、匂い口が地肌に影響される事無く整った刃文を焼く事が可能となっています。もしかしたら、鎌倉時代の備前刀工達もこの様な地鉄を目指していたのかも知れません。
新しい時代の備前様式の刀には、単に整うだけではない、地鉄の深みを求めた作品が現れました。
人間国宝の隅谷先生の作品は地鉄に変化があり、また映り気のある作品も多く見られます。
そして平成・令和の備前様式はさらに進化し、地刃共に様々な魅力に富み、単なる復古刀とは違い個性的で味わい深い作品が生まれています。



全身押形 美濃刀、直江志津・御勝山永貞

刀 無銘 直江志津
大和手掻包氏が美濃国志津に移住し兼氏と改名、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍し一門が繁栄しています。
その二代目以降及び一門の総称が直江志津です。(刀の世界では「志津」「直江」と刀工名の様に使用していますが、志津、直江は元来地名です。)
直江志津に関連する呼称がいくつかありますので以下に整理します。
・志津  =手掻包氏美濃移住後の名称(志津三郎兼氏)。大志津。
・大和志津=兼氏の大和在住時代の名称(大和在住時代の作は全て無銘)。
      包氏に近い刀工で美濃移住に追従せず大和に残留し、
      その名跡を継いだ鍛冶の名称(広義大和志津。この後代包氏在銘作は現存します)。
・直江志津=兼氏の門葉は直江に移り住み栄えますが、二代以降の兼氏及びそれらの総称。直江。

刀 銘 美濃御勝山麓住藤原永貞 
    於江戸青山作之 文久元年十一月

毎年の重刀審査発表を見ても分かりますが、新々刀の重刀合格の壁はかなり高いものです。
そもそも、新々刀の中で重刀に合格できる可能性がある刀工は限られているという事は、過去の指定品から理解できます。
代表的なところをあげると、清麿、栗原信秀、固山宗次、大慶直胤、左行秀、薩摩新々刀各工などでしょうか。
その次に各国の新々刀有名諸工が続きますが、その一人が御勝山永貞です。
永貞は作刀の技量で見れば代表工として上げた工人達に劣るとは思いません。非常に上手い刀工です。



全身押形 朱銘兼基

朱銘、兼基 八十一翁松庵(花押)

しばらく前の刀剣美術「名刀鑑賞」に来国光の松庵朱銘がありましたので、以下その解説を引用させて頂きます。

『「松菴」は明治時代の故実家で、東京帝室博物館(現東京国立博物館)の学芸委員を務めた稲生真履(司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』の登場人物で、海軍軍人として日露戦争時の日本海海戦などで活躍した秋山真之の義父)のことで、刀剣をはじめとして古美術品に造詣の深い人物として知られており、他にも同氏が極めたものが幾点か確認され、本作の極めよりして同氏の炯眼の程が窺われるものである。』

三本杉基調ではありますが出入りは大人しく、頂点の尖り具合も優しい互の目です。元から先まで揃った形とはなず、三本杉の祖型的刃文となっています。地錵が細かく付き地景が多数確認できる板杢で非常に良質な鉄。
孫六と言いたくなる調子ですが、身幅若干狭めの大人しい造り込みであり、鋒も詰まり気味である事などを考慮してこの極めとされたのでしょうか。大変勉強になる良い極めだと感じます。

この様に締まった美濃の互の目を墨筆で描くのは結構難しく、先日の孫六も苦労しました。