「備前・備中・備後の名刀」

また2年カードを頂戴していたので、京博さんに用事ついでに展示を観覧。
1階の仏像を見たくて入りましたが、同じく1階の5,6展示室で「備前・備中・備後の名刀」という展示が行われていました。知らずに入ったのですが幸運。

今日の時点での展示は29口。
古青江、古備前、一文字、長船物、末備前、宇甘、畠田、三原などが展示されています。
展示品の中に以下の品もありました。

太刀、銘 □忠(国指定重要文化財 旧嵯峨御所 大本山 大覚寺蔵/京都国立博物館寄託収蔵品)

・太刀 銘 (菊紋)一(菊御作)(重要美術品・特別重要刀剣 京都国立博物館寄託収蔵品)

・小太刀 銘 景安(古備前 特別重要刀剣 京都国立博物館寄託収蔵品)

・太刀 銘 景秀(長船 特別重要刀剣 京都国立博物館寄託収蔵品)

・太刀 銘 備前国長船住人真光(重要文化財 京都国立博物館蔵)(2024年度調査記録のため、京都国立博物館にて全身押形を採拓)

29口いずれも名品ですが、個人的に注目の品は、確か春日大社旧蔵の享徳ニ年紀の則光太刀です。
西暦1453年製作の太刀ですが、まだ茎の錆が浅く、薄っすらと銀色でタガネ枕が凄く。付属の鉄太刀鎺もまだ銀色です。





修学院離宮

修学院離宮付近がお散歩距離に丁度よいので結構頻繁に行きます。
三宅八幡から三明院を通り、蓮華寺横を抜け、高野川を渡り赤山禅院前を通って修学院離宮。
離宮の直ぐ南に音羽川という小さな川があります。
大雨になると白川北大路以北はいつも道路が冠水し、コンビニなども大変な状況になっていますが、この川が原因でしょうか。(この川に限らず白川通り以東の山から大雨の度に水と砂が大量流出している様にも思いますが)
音羽川上流には砂防ダムが沢山ありますが、その付近直南が曼殊院。
昨日その辺りの山道でまた磁器片を見つけました。
沢山転がっているので木の枝でペチペチ捲りながら山中へ・・。
気になって今日も同じ場所へとぽこぽこ歩き、またペチペチ捲り。
いくら京都といっても普通は転がっている磁器片は明治以降の物が殆どで多くは昭和の物なのですが、今回は場所柄でしょうか、多分元禄伊万里や柿右衛門と思われる物も。。
金属探知機なんかを持って行けば、笄や目貫なんかもころがっているのかもですねぇ。



写し物

短刀 銘 播州住隼光作  
     平成二十四年盛夏 

桔梗隼光刀匠の景光を狙った短刀です。
映りが見事に再現されており、第7回お守り刀展覧会に於いて特賞のテレビせとうち賞を受賞された作品です。

短刀  銘 法廣 
      平成二十一年鮎季 

宮入法廣刀匠の景光を狙った作品です。
この作品の翌年、平成22年新作名刀展に於いて、同じく景光を狙った片落ち互の目の短刀で正宗賞を受賞されています。


短刀 銘 元亨三年二月日 以余光鉄 備州長船住景光
     鍋島景光ニ倣ㇷ 源貞次 紀元二千六百一年八月日 彫同作(花押)
    (棟)為井内彦四郎氏作之

鍋島家に伝わった景光の短刀に倣い、高橋貞次が作刀したものです。
片切刃短刀で、表 樋中に素剣の浮彫、裏 孕龍。
この造りは、貞次が倣った景光元亨三年(重美)の八年前、来国俊正和四年の短刀(重美)にも見られます。
来国俊の彫りが後彫りでなければ、景光は来国俊の作に倣ったのかも知れません。(大本となる作は海老名小鍛治宗近と考えられるようです)
また、少し寸は延びますが肥前忠吉にも同作があり、特別重要刀剣に指定されています。
貞次作の本短刀は、紀元二千六百一年(1941年)の作刀年紀がありますが、鍋島家に伝わった重美の景光短刀は1940年、靖国神社遊就館で開催された「紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会」に出陳されています。そこで景光短刀を見て影響を受けたのか、または棟銘にある注文者、井内彦四郎が遊就館で見て注文をしたものか、興味は尽きません。

太刀 銘 加賀国住正峯 於傘笠亭作之 思飛鎌倉期 漂一文字上
     昭和丙午年二月

隅谷正峯の、御物 道誉一文字写しです。
目釘穴が二つ、茎尻にも目釘穴の痕跡がありますが、道誉一文字と同じ状態を再現しています。
道誉一文字 | 日本刀や刀剣の買取なら専門店つるぎの屋 (tsuruginoya.net)

脇差 銘 加賀国住両山子正峯作
     昭和戌申二月吉日

隅谷正峯の南北朝期の青江に倣う作品です。
隅谷作品は備前の一文字を狙った隅谷丁子で有名ですが、平造りの物では多くの逆丁子作品を残しています。
茎形状などからも青江次直あたりをお手本とした事がうかがえます。

太刀 銘 包永
     兵部大輔藤孝磨上之異名号児手柏 天正二年三月十三日
  (棟)大和国住月山貞利謹作(花押) 平成二寿久年五月吉日
                (公益財団法人 徳川ミュージアム蔵)

月山貞利刀匠の児手柏包永写しです。
享保名物「児手柏包永」は大正十二年の関東大震災で被災しました。各刀剣書にもその事が記されていますが「焼失」と書かれる事が多く、刀剣界では現品は残っていないと認識していた方が多いと思います(私もです)。
しかし近年、焼け身の状態で茨城県水戸市の公益財団法人徳川ミュージアムに保管されている事が判明、徳川ミュージアムでの展示や、佐野美術館の「REBORN 蘇る名刀」に出陳、広く知られる事となりました。
以前は錆身や焼け身が展示される機会は稀でした。しかし観る人の価値観は多様です。既存の価値観にとらわれず、刀の歩んできた歴史を知り、様々な価値を探り見出す取り組みとして「REBORN 蘇る名刀」は素晴らしい展示だったと思います。

徳川ミュージアムでは「刀剣プロジェクト」として、児手柏包永写し(月山貞利刀匠が担当)、そして同じく被災した燭台切光忠の写し(宮入法廣刀匠が担当)を制作。
「児手柏」とは表裏の刃文が著しく違う事から名付けられた異名ですが、焼け身となった今、その刃文を知るすべは明治の鑑定家今村長賀が残した全身押形のみ。今回の再現刀はこの長賀の全身押形を元に制作されました。

大和物らしく流れ肌を見せつつ、奥行きがあり強く美しい手掻派の地鉄をこしらえ、長賀の押形の通り佩表は大きく乱れ、裏は直ぐ調の刃が焼かれ、児手柏包永が見事に再現されています。私はこの児手柏写しの研磨を担当させて頂きその時全身押形も採拓していましたが、この再現プロジェクトからも刀剣の今を全身押形として記録に残す事の重要性を強く感じる事となりました。
 公益財団法人 徳川ミュージアム

太刀 大野義光刀匠の山鳥毛写し。
銘が切られる前に全身押形を採拓しましたので採拓時は無銘です。
焼き出し部の特徴的な刃文もよく再現されています。山鳥毛よりさらに全体の焼きが高く、迫力のある作品です。

太刀 銘 一 杉田善昭作 平成六年五月日

杉田善昭刀匠の一文字に倣った作品。
会心の作という事でしょうか、茎に「一」の文字が刻まれています。

刀(金象嵌銘)永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀
       織田尾張守信長
    (棟)一平

河内一平刀匠の義元左文字写し。金象嵌は装剣金工の木下宗風師。
姿、各寸法、地鉄や刃文、金象嵌銘と、本歌義元左文字を忠実に再現しています。

短刀 銘 吉光
     令和四年 本能寺什
  (棟)一平

河内一平刀匠の薬研藤四郎。
本能寺の変で焼けたといわれ、現存していません。
しかし光徳刀絵図に焼ける前の状態が記録されており、それを元に再現されています。




青江

太刀 銘 守次(古青江)
青江派の祖といわれる刀工が安次。その子が守次です。
守次は貞次らと同様青江派を代表する名跡の一つで、初代以降同名が南北朝期まで続きます。
押形の太刀は鎌倉中期頃の守次で銘は小振りなタイプ。
刃長二尺六寸二分。堂々の太刀姿です。

太刀 銘 貞次(古青江)
貞次も守次同様青江派の代表的名跡で、古青江時代から南北朝期の青江と呼ばれる時代まで続いています。(古青江は鎌倉中期頃まで。以降青江。)
国宝の貞次は後鳥羽院番鍛冶に該当する貞次と思われますが、この貞次も同人ではないでしょうか。
古青江には比較的少ない直刃を焼いています。

刀 折り返し銘 為次(古青江)
為次も同名で複数居たようですが、その代表作は国宝で狐ヶ崎の号がある吉川家伝来の太刀です。
狐ヶ崎が二尺六寸。この刀は現在二尺二寸二分。折り返し銘を元の位置に直し、生ぶ穴が区下指4本とすれば刃長二尺七寸を越えて来ます。
うっかり映りを描き込むのを忘れていますが、先日久々に拝見しましたら、鮮明な地斑映りがありました。後日映りを書き加えます。

太刀 □□国青江住吉次作
   元徳□年(以下切れ)
吉次は鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した工人で、この工も同名が複数確認されています。
磨上げてなお二尺四寸七分。この太刀も大きい。

刀 無銘(伝青江)
こちらは無銘で伝青江と極められています。
古青江時代には逆がかる刃はさほど目立たないものですが、鎌倉末期へと時代が移るにつれ次第に逆刃が目立ち始めます。
この刀も差し表にその特徴が顕著です。

脇差 銘 加賀国住両山子正峯作
     昭和戌申二月吉日
隅谷正峯の南北朝期の青江に倣う作品です。
隅谷作品は備前の一文字を狙った隅谷丁子で有名ですが、平造りの物では多くの逆丁子作品を残しています。
茎形状などからも青江次直あたりをお手本とした事がうかがえます。

この後も古青江守次の大振り銘の太刀、古青江行次太刀、古青江吉次(青江か)太刀の研磨予定があり、また全身押形の採拓をしたいと思います。