無銘南北朝期寸延

無銘の平造り脇差の全身押形を採拓。

刃長33.95㎝
反り0.5㎝
元幅31.8(32.8)㎜
元重4.8㎜
茎最厚5.4㎜
248g
平造、三つ棟。
重ね薄く、身幅広く、寸が延び、少し反り、ふくら先枯れて鋭い。
生ぶ茎、茎極短く、元来の無銘。
茎尻栗尻、目釘穴2、鑢目切り、棟・刃は角(鑢不明)。
地鉄、板目詰んで杢目混じり。細かく錵付き、地斑映りごごろあり。
刃文、互の目連れて中直ぐ調、フクラ先から深くなる。小錵付き明るく、砂流しかかり金筋入る。
帽子先深く丸く返る。

初見はいつもの癖で少し若く見る。互の目は室町に見てしまう癖が。。互の目といっても谷が広いものではなく、連れて焼いていて、谷部には小錵が詰まっています。
しかし極端に短い茎や薄い重ね、地鉄の位から考えて南北を下る事は絶対にないでしょう。
この様な明確に南北と分かる造り込みにこの互の目調を焼いてくれていると自分の癖を修正出来てありがたい。
応永の丸い互の目もどうしてももう少し下げて見る癖があるんです。悪い癖。

茎最厚が5.4で元重が4.8。数値で見るとそれなりに減っている印象を持つかも知れませんが、この程度の数値差の現物をみると、全く減っていない刀身と感じるものです。で、帽子が大変深いわけですが、時代が若いから深いのではなく、南北だが減っていないから深い。
これも注意しなければ、古くてこんなに深い物はないでしょと誤認します。

さてこの刀はなんでしょうか。
単純に考えると・・・互の目感が強過ぎるが、中島来か。地鉄の位はそういうランクです。
無銘は面白いですね。




再刃

再刃と判定される刀は減っていると感じます。昔の判定は厳しかった。。
昔は良かったとか苦労自慢とかその類の事を言うつもりはないですが、昔は厳しかった。

以前某所で昭和に再刃と判定された在銘の太刀を見ました。
が、私には再刃に見えず。
なんでも再刃だという私でも、昭和の判定に比べるとかなり緩いわけです。
再刃判定は慎重に行わなければならない事は心得ています。「なんでも再刃だという」がどのような物を指すか、説明は難しいですが、おそらく想像される物とは違う事が多いでしょう。
今後再刃判定が出来る若者って出て来るのでしょうか・・。
入札鑑定すら敬遠される世界になっているそうなので、もうダメかも知れません。



藤島2

藤島刀工を銘鑑でみると以下の通り。結構居ました。
私が藤島と認識して見た事があるのは友重だけかも知れません。
「藤島」とのみ切る物も相当数存在し、それはよく見ます。
また実際の切銘は「藤嶋」で、協会も以前は「嶋」と「島」の使い方が統一されていませんでしたが、どうやら近年は「島」に統一されている様なので私も「島」を使うことに。

有綱 応永
有元 嘉吉
家次 新刀
右衛門尉 応永
景光 応永
清光 文安
清光 明応
国次 永和
是重 正長
是光 永享
重清 新刀
重信 応永
次家 応永
次家 文明
俊重 文明
友家 文明
友景 永正
友清 応永
友清 文明
友清 新刀
友貞 新々刀
友重 明徳
友重 貞和
友重 永徳
友重 応永
友重 康正
友重 明応
友重 天文
友重 天正
友重 新刀
友重 新刀
友重 新々刀
友次 至徳
友次 永正
友次 元亀
友次 新刀
友綱 明応
友長 文明
友弘 文明
友吉 明応
成重 文明
信長 応永
信長 文安
正重 天文
宗重 永正
守重 天正
守重 新刀
森重 天文
康重 天正
行光 康正
行光 文明
行光 文明
行光 応永
行光 康正
行光 永正
行光 天文

刀屋さんの商品説明にはほぼ必ず「友重は来国俊の門人で」の説明がされていますが、現存最古の年紀は応永です。
無銘の極めでは「古藤島」という応永より時代がさかのぼるという意味の鑑定書が出る事がありますし、在銘でも応永よりも古いと思われる物も少し。
しかし作風を見ると、来国俊とつながる様な物を見る事はまず無いですね。造り込みや茎や作風を見るとむしろ大和気質が強い物が多い(昨日のブログの通り備前と間違われる物も多いです)。例えば浅古当麻信長は当麻の流れといいますが、藤島に似た物がありますし。
藤島は鎬が高く、茎も当麻茎に近く、作風は尻懸風の物もあり。宇多や浅古当麻など、大和系刀工との交流が多かったためでしょうか。
重刀の中に「藤嶋友重」銘の短刀があります。刃長8寸5分で内反り。鍛えは杢がかり肌立ちごころ。刃文は直ぐに小錵付き小足入る。帽子小丸で僅かに返り、掃きかけで金筋入る。茎は振袖がかり、目釘穴3。
解説で「剣書に初代友重は来国俊の門人としているが、この短刀に見る時代、作風はそれを裏付けるものがある。」とある通り、垢抜けた良い短刀です。名義は永藤一さん。流石に良い物をお持ちです。
関西で刀剣の展示が色々と | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区



藤島

古刀期の加賀国には藤島一派が居ます。一派とは言いますが、では誰がいる?と考えてもパッと出てくるのは友重ばかり。
しかし先ほど銘鑑で見ると友重以外にもかなりの掲載があったので、それはまた後日。

さてその藤島の刀ですが、私はやけに沢山あるなと感じています。
研磨した数でいうと、おそらく豊後刀よりは多い。そしてもしかしたら関物よりも多く研磨しているかもしれません。
豊後や美濃といえば刀剣の量産国として知られ、銘鑑の古刀期の刀工分布図によると、美濃は備前に次ぐ2位、豊後は山城、大和、備中に次いで6位の刀工数を誇っています。で加賀はというと、14位。筑前の次、肥前の前です。肥前の古刀って誰よ。。
この「刀工数」というのはあくまで刀工の数であって、刀の生産量ではありませんので、生産量の順位がそのままではないかもしれませんが、おそらくこの順位に近いものになるでしょう。
藤島が多いというのも、単に私の環境から来るところが大きいと思いますので、実際の現存数は美濃物より多いということは絶対にありません。が、肌感としてかなり多く感じるのも事実。
在銘も多いですが、もしかしたら無銘が多いので研磨の機会も増えるのかもしれません。
藤島の刀は造り込みに特徴があり、仮に磨り上げ無銘の真っ赤錆で地刃とも一切見えなくても、研ぐ前に藤島とわかる物も多いです。
そして研ぎ上がった無銘藤島を見ればかなり古く見てしまう人も多いかも知れません。
実際複数回経験があるのですが「〇〇先生から”備前の古いところだから買っておけ”といわれ購入し審査に出したが備前にならなかった」と審査に不満を持たれ、拝見したことが。「結果は藤島ですか?」とお答えすると、あぁ・・・。
藤島は短寸で反り深な物も多いですが、結構長く南北末期頃の太刀風の物も度々みます。そのタイプなどは古い本国物の偽材料にされやすいですし、短寸の磨り上げ無銘もかなりの数存在しますから、それらも悪意で仕立てられた物が多いのかも知れません。



保昌と南北相州物

が特にどうしたという訳ではありませんが、保昌と相州生ぶ在銘南北年紀と、広光寸延びの全身押形を採拓。
南北年紀の物は小太刀。まだ採拓中で片面の5割程度。かなり激しい皆焼ですが、「基調は大倶利伽羅広光に似ているかも」と大倶利伽羅の押形採拓を思い出しながら作業を行っていました。
皆焼の時は毎回言っているかもですが、今回こそ本当に薄墨サラサラで済ませます。多分。

保昌も沢山見るうちに、「保昌」と「末保昌」の違いが自然と分かります。
そういえば、大磨上げ無銘の完柾刀に「包清」の極めがあてられた物を幾つか見た事がありますが、あの意味を理解せず来ています。
久々に見てみたい極めですが、今もある極めでしょうか。。
極めといえば・・・。
一般に流通する刀ではなく、本当に眠り続けていた刀を大量に見た時などは、無銘の極めにはちょっと思う所があったりします。
古研ぎ薄錆身 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区
↑この様な事例には度々出くわす訳ですが、新刀・新々刀の著名でない刀に、大変古く見える刀が必ずあります。そしてその人達は仕事も丁寧でとにかく上手い。
上のブログはもうかなり前のものですが、今でもそれは変わらずです。
長期間眠っていて突如出現するのでたまたま在銘のまま残されていますが、普通は磨上げて化けちゃうわけです。

これとはまた性質がかなり違う話ではありますが、「五ヶ伝」という分類方法は、便利だしよく出来ていて、なるほどなぁ~と思う事が非常に多いです。しかしこれだけではどうも説明がつかないというか、納まりきらない事も多々あるわけで、その辺については「大三島の太刀」で小笠原信夫先生が仰っている事に答えがあり、なんでも決め過ぎず、おおらかにみる事も肝要かと。




閑谷神社の長谷部国信太刀

また気になり、今朝改めて調べると簡単に見つかりました。以前もデジコレ見てたはずなんですが・・・。

MUSEUM136に寒山先生による詳細が。
『長さ88㎝、反り2.9㎝、元幅3.28㎝、先幅2.28㎝、鋒長5.75㎝茎長22.2㎝
鎬造、庵棟、身幅広く、鎬幅が狭く、鎬は特に低く、重ね薄く反り浅く大鋒となり、鍛えは板目、所々に流れごころの大肌が交じり、地錵付き地景が入っている。刃文は中直刃調に僅かに小湾れが交じり、ほつれて、足入り、砂流しかかり、小錵がよくついている。帽子は乱れ込、先は掃きかけ、金筋かかり錵付き、裏は小丸に返っている。そして表には二筋樋、下に梵字二つ、さらに下に三鈷剣の彫物があり、裏には二筋樋、下に梵字二つ、さらに籏鉾の見事な彫物があり、茎は生ぶ。先刃細って栗尻となり、勝手下がりの鑢目が立ち、目釘穴1、長谷部国信と細鏨で大振りの五字銘が鮮明で、部の字の口のところに目釘穴がかかっている。そして生ぶの見事な鉄鎺がつき、白鞘入りである。』

因みにこの太刀、明治に池田家から納められた物ですが、登録証問題などもあって東博が買い上げたそうで、往昔抄と光山押形に所収。
両書を確認すると確かにありました。往昔抄に掲載の品ってかなり珍しい。
大分スッキリした。東博で展示があれば見てみたい太刀です。



長谷部

先日在銘長谷部某短刀の全身押形を採拓。いつもの長谷部らしい白く肌立つ地肌です。
白熱灯で見ながら、差し表は刃棟が柾がかるのではなく完全な柾なので少し疑問に思いながらも、時間も無い事だし・・・これも有りかとそのまま進めました。
やはり気になり国重、国信、国平の平身重刀ほぼ全ての地鉄を調べた結果、完全な柾目はゼロ。一つだけ片面ほぼ柾目という物があるのみ。
で改めて実刀を蛍光灯でよく見ると、差し表は一見ほぼ柾目ですが、仔細にみると板目交じりで柾気が特に強いという出来でした。
白熱灯で透かして見ると板目が見えず柾目だけが見え(目が刃に引っ張られることもあって)、保昌の様に区に寄らず茎から素直に先に向かい、そして先で棟に寄らず帽子に消える白い柾目が目立つだけで、蛍光灯だとまた違う見え方に。無冠で私見ですが銘も出来も大丈夫そう。

先月採拓した長谷部国重脇差は少し代が下がり南北末期乃至応永の国重。長谷部の銘も様々で、一番多い国重を見慣れた目で見ると相当な違いを感じる銘です。鎬造脇差で、出来は上杉三十五腰の唐柏(長谷部国信)に代表される長谷部の長物のあの出来。(長谷部長物は地鉄が詰み匂い口整う)
以前支部会で使用させて頂いた特重の長谷部国信の太刀も唐柏同様の出来でした。

そうその時長谷部太刀の事を調べていて、確か小笠原信夫先生の「長谷部国重についての一考察」などによると国重・国信ともに長い物は6口づつの現存だった様に思いますが(ちょっと曖昧な記憶で書いてます)、その中に国信の大太刀(刃長87.6㎝)がある事を知り驚きました。「長谷部国信に大太刀?聞いた事無かった!」って感じです。それで色々調べるのですが、全然出て来ず。。
さらに調べるうちに、寒山先生達が(確か備山さんも加わっていたか)岡山の山奥の閑谷神社という所に長谷部の大太刀が眠っているという話を聞き及び、半信半疑で見に行ってみると正しく長谷部国信の大太刀だったという記事が刀美に。さらに調べるとその後本間先生のお世話などにより、東博が買い取っていた次第。(正確な時期もありましたが失念)
その大太刀がどうしても知りたく、しかし東博の出陳履歴なども分からずでしたが、平成11年の岡山県博の「日本刀五ヶ伝名刀展」に岡山県閑谷神社伝来品として東博蔵の長谷部国信大太刀が出されていた事を知りました。東京からの里帰り出陳です。
そしてしばらく探すとその時の図録を入手出来、そこでようやく気付いたのですが、何度も何度も見ていた名品刀絵図聚成の唐柏の横に参考押形として掲載の茎押形が、その閑谷神社の大太刀押形だったんです。名品刀絵図聚成では唐柏の茎とほぼ同サイズに縮小されての掲載なので(多分縮小)、まさか大太刀の茎とは気づかず・・・。唐柏の名刀鑑賞項にも同様に掲載なので、今まで何十回みた押形か分からんのですが、気付くまでの労力たるや。。
(87.6で通常いう大太刀定義に届いていませんが、この太刀を「大太刀」としている物が多かったので大太刀と書いてます)

しばらく前に、重文長谷部国重、重文秋広、重文左文字、特重在銘正宗、重刀長谷部国信×2、重刀無銘長谷部他関連6口を並べて鑑賞させて頂いた事がありました。改めて、長谷部というやつは面白いと感じ。
こう言っちゃなんですが、長谷部の短いやつは、地肌ガサガサでなんでそんなに評価高いの?とずっと不思議に思っているんです。20代の頃から。
なんで長い物は短い物とそんなに本質的違いを見せるのかとか。大和出自説(当麻の長有俊の”長”は長谷部の略の事なども)や新藤五との関係など、分からん事が多いのも魅力の一つ。





色々拝見

肥前忠広献上銘拝見。
献上銘はちょっと久々。極端にタガネが太いタイプではないが、国の右、藤の三本線、広の菱点など初代献上銘の典型です。
肥前刀は今まで一体何本拝見してきたでしょうか。研磨だけでもかなりの本数になりますが、手に取り拝見した数となると、ちょっと分からないほどの多さです。そんな数多い肥前刀の中でも、今日の武蔵大掾が飛びぬけて、はっきりと一番良いと思える刀でした。
今までも肥前刀は凄い、初代は凄いと本気で思って来たわけですが、このような出来を見ずに思って来たんですねぇ。。なんだか何も知らないのに凄いと言っていた気持ちになり恥ずかしい。

大和物長銘短刀全身押形採拓。もしかしてこれ一つしかないのかもと思い色々さがしていたら一つ出てきた。時代南北。

山城物在銘小太刀全身押形採拓。この人の小太刀は珍しい。

鎌倉時代最上作短刀の在銘全身押形採拓。現代の鑑定では「と銘あり」だが、上身はそのものの出来。

錆身だった書き下し銘の太刀、研ぎ進めてみるとどうも再刃と思う。というか個人的には間違いなく再刃。ただ多分鑑定は通る気がする。
これは見れる見れないの話ではなく、そういうものなのです。とりあえず全身押形採拓。

鎌倉末期在銘長銘短刀が出てきた。長銘は重文に1つしかないのではなかろうか。
えらいもんが出てくるもんだ。全身押形採拓。

山城物生ぶ茎在銘重文太刀拝見(個人蔵)。身幅広く、笠木反り深く、非常に健全だが手持ちは軽め。広直刃調で帽子は新作並に深い。
近年この派の作に縁深く、重美の同工生ぶ茎在銘太刀の研磨、上記小太刀全身採拓、非常に珍しいこの工の在銘短刀の全身採拓、同工の子の新発見太刀の研磨に重文・特重太刀・特重短刀の全身採拓、さらに子の短刀全身採拓、そして先ほどまで「重文・特重太刀」の子の全身採拓を。
以前はそれほど好きでも無かったのですが、ここまで来ると大分好きになる。



久々に朱をすり押形に朱書を入れました。
朱書きはそれ程多いものでもなく、押形に入れる事も少ないです。
朱で文字を書くと下手字でも結構上手く錯覚出来るので楽しくて。
で今回は珍しく軸装前提なのですが、誤っていつもの水性色鉛筆で輪郭を採ってしまった・・・。
刃文描写の表裏ほぼ完成時点で気付き。流石にこれはもう一枚描かないとダメです。
表装が嫌いなので普段はまず行う事はなく、よりシャープな輪郭を描ける水性色鉛筆で輪郭をとっているんですが、油性でもう一枚描きます。
ところでこの朱は水に溶けないのだろうか。大丈夫と思うが一応確認しよう。



7月入札鑑定

1号 刀
少し短めの刀。反り頃合いに重ね薄めで手持ち軽い。地鉄は詰むも少々肌立ちあり。棒映り状の箇所があるも白けが強く、腰元平地に土落ち風で不規則な飛び焼きと映り気。刃文は焼き頭が揃い気味の互の目。形状は不規則で吉井ほど整然とせず。少々荒錵付く。

一瞬小反が浮かぶも、この様な不規則な地の様、不規則な刃文は美濃だと思う。
この姿体と刃は協会の無銘極めの美濃千手院に見る気がする。が、美濃千手院の個名が浮かばず。。
しかしおそらく今回は兼某と入れれば全部当たり同然になるのではなかろうか。という事でパッと浮かんだ兼貞と入札。

2号 脇指
尺8寸程度か。鎬造。よく詰み綺麗な地鉄。大小の互の目がリズムよく焼かれ、刃取ると涛乱風になる刃文。匂い深く、錵粒細かく、とにかく明るい。
京焼き出し風だが僅かに先に広まる。

全然わからん。江戸ではない気がする。京ではない(はず)。大阪か・・・。
無理やり肥前と見れば見れなくもない。播磨大掾忠国と入札。

3号 脇指
2号より細身で反りは少し浅い。杢目は無いが応永地鉄。淡く映り。
出入りの少ない互の目で腰開き気味。丸味が目立つ互の目、頭が平らな互の目などを焼く。
帽子は互の目を焼き込み先丸く返る。棒樋を鎺上で丸く止める。

先日の誌上鑑定の物に似る。長船則光と入札。(則光にはまだ応永地鉄が残る物がある)

4号 脇指
尺5寸程と短寸で反り少し強め。元先開かず横手幅力強い。
詰む地鉄。湾れを互の目でつなぐ刃文。互の目を焼き込み虎徹風の帽子。少々返る。
一見匂い口が寂しく感じるが、2号が深く明るすぎるだけで、この脇差も悪くない。

帽子もだし、とりあえずこれにしてみる。大和守安定と入札。

5号 平造り寸延び。
反り気味で先鋭く美しい姿。重ね厚い。強く見応えのある地鉄。
二個で一つになる互の目(ライオンが寝転んだ様な)を小湾れでつなぐ。匂い口は締まり気味で少々錵が荒い。

安定でこの荒錵と締まり加減というのがどうもしっくりこないが、4号の件とニコイチで、大和安定と入札。

当扱
イヤ
国入
イヤ
通り

まいった。
2号は助直だわ。
3号、この地鉄は応永は外せず。こんな刃文だが、小反系じゃなく正系だと感じる。そして盛光ではない。
康光と入札。
4号、短寸脇差で反る物は結局これだ。親国貞と入札。
5号は分からず。江戸で通りだから・・・直江助政と入札。

当扱



通り

5号、これだった。そう思えば絶対これしか無く、当たりだと思う。茎の形まで見えて来た。
飛騨守氏房と入札。

当扱



1号  刀 銘 濃州赤坂住兼元 明応八年二月日
2号 脇差 銘 近江守高木住助直 延宝九年二月日
3号 脇差 銘 備州長船康光 応永十八年八月日
4号 脇差 銘 和泉守藤原国貞 
5号 脇差 銘 飛騨守藤原氏房