燃えよ剣
20年程ぶりに「燃えよ剣」を読みました。
司馬遼太郎作品には”十津川者”として私の郷里十津川の人が度々登場します。
あっさり斬られる事が多く、燃えよ剣でもその通り。 ま、相手が土方歳三なので仕方がない。
しかし司馬さんの配慮か或いは司馬さんが十津川の事を好意的に思っていたからか、それほど悪い書かれ方をする事はなく、嫌な気分になった覚えはありません。
燃えよ剣のあと、これも久々に司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ「十津川街道」を読んでみました。
幕末、京都には十津川屋敷というものがあったのですが、「十津川街道」でも少し触れられています。
「市中に藩邸じみた屋敷をもち、どうせ借家であったろうが十津川屋敷などと称されて、十津川から出てきた連中が合宿し、御所の門の衛士をつとめていた」。(これもこの前後の文脈から、嫌な書かれ方では全くない)
話は飛びますが、私が生まれるより以前、テレビで新選組血風録(司馬遼太郎原作)のドラマが放送されていました。
その第13話に「強襲十津川屋敷」という回があります。
タイトル通り、新選組が十津川屋敷を強襲しますが、やはり十津川者はバッサバッサと斬られます。
(20年ほど前、左京の東鞍馬口通りに研ぎ場があった頃、夜確か末備前の下地をしていた時、「こんばんはっ」と男性が入って来ました。
上品な御顔立ちの初老の紳士です。おもむろに懐から何かを出しながら「おじさんはね」と話始められた事を覚えていますが、手にあったのは新選組血風録のビデオのチラシ。
その方は新選組血風録で主役の土方歳三を演じられた栗塚旭さんでした。)
新選組が十津川屋敷を強襲した事実はないようですが、十津川屋敷は実在したものです。
最初は借家であったそうですが、その後十津川から木材3000本を京都まで運び、御所の東に建てられました。
正確な場所は分かっていなかったのですが、近年特定され、十津川村教育委員会により碑が建てられています。
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幕末、十津川郷からは多くの兵が出ています。
鳥羽伏見の戦いでは十津川隊からも多くの戦死者が出ていますし、北越戦争にも御親兵として十津川郷士200名以上が出兵しています。
十津川郷士には戦死者の他、切腹して果てた人も何人もいますが、それは所謂詰腹を切らされたのではありません。
十津川の郷士には通常の武士の様な組織はなく、直接の主君もありません。なので詰腹を切らされる事もないんです。
普段は山仕事などをしていた山民です。なのに何故。。
文久三年、十津川郷から京の中川宮にさしだした嘆願文に十津川郷についての紹介をしたくだりがあり、その中に「高山幽谷、僻遠多くは不毛の地にて食に乏しく土民ども雑穀木の実をくらい・・・」とあります。
そんな食い物すら十分に得られない地で、郷民皆刀槍を備え、いざという時には兵を出し、切腹までやってのけるとは。
十津川郷士は純粋な勤皇といわれますが、なかなか出来る事ではないです。