続き

歳を取ったせいか、田舎の事をもう少し知りたくなり、十津川郷採訪録(全五巻)という本を買ってみました。
私の郷里十津川村は”秘境”と呼ばれる事があります。
現代では秘境といえば聞こえは良いですが、生活する人にとっては不便極まりない僻地です。
しかし外に出た人間としては、ずっと秘境であって欲しい気持ちもある訳ですが。。

十津川郷が長い間秘境として存在した一番の原因は道路事情の悪さです。
「十津川街道」によると、十津川郷の南端まで道路が開通したのは昭和34年だそうです。
電気が来たのは昭和20年代の中頃。
「十津川街道」の中で、私の実家の隣の人が、電気が来る以前の生活の事を「それまでは江戸時代の暮らしじゃぁ」と言っていますが、大袈裟ではなく本当にそれに近い暮らしだったのだと思います。
私も母から電気が来た日の事を聞いた事がありますが、本当に嬉しい出来事だったそうで。
今でも度々秘境として紹介される事のある村ですが、現在では道路事情がよくなり、十津川村の秘境度はかなり下がっています。
しかし道路が通る以前、昭和20年代までの十津川村の秘境度合いは、現代からは想像が出来ない、本当の秘境であったはずです。

母は小学一年から、朝家を出る前に藁でワラジを2枚編み、1枚を履き、1枚は帰りのために持って行ったそうです。
食料は「高山幽谷、僻遠多くは不毛の地にて食に乏しく土民ども雑穀木の実をくらい・・・」の通り、主食は雑穀。サツマイモは御馳走の部類。
「”瓜根のキゴ”(黄烏瓜の根から採るデンプン)を、えずきながら食べた」という話をよく聞かされました。
そんな親ですので、私も小学2、3年の頃、コマ回しの紐をなくし、買って欲しいと母に頼んだのですが、「自分で綯(な)いなさい」といわれ細い麻紐を綯ってコマ紐を作ったのを覚えています(私もワラジの作り方は教わっていて、遊びでビニールの荷造り紐を綯ってワラジを作って履いたりしていました)。
でもねぇ、硬い麻紐じゃぁコマは上手く回らんのですよ。。



燃えよ剣

20年程ぶりに「燃えよ剣」を読みました。
司馬遼太郎作品には”十津川者”として私の郷里十津川の人が度々登場します。
あっさり斬られる事が多く、燃えよ剣でもその通り。 ま、相手が土方歳三なので仕方がない。
しかし司馬さんの配慮か或いは司馬さんが十津川の事を好意的に思っていたからか、それほど悪い書かれ方をする事はなく、嫌な気分になった覚えはありません。

燃えよ剣のあと、これも久々に司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ「十津川街道」を読んでみました。
幕末、京都には十津川屋敷というものがあったのですが、「十津川街道」でも少し触れられています。
「市中に藩邸じみた屋敷をもち、どうせ借家であったろうが十津川屋敷などと称されて、十津川から出てきた連中が合宿し、御所の門の衛士をつとめていた」。(これもこの前後の文脈から、嫌な書かれ方では全くない)

話は飛びますが、私が生まれるより以前、テレビで新選組血風録(司馬遼太郎原作)のドラマが放送されていました。
その第13話に「強襲十津川屋敷」という回があります。
タイトル通り、新選組が十津川屋敷を強襲しますが、やはり十津川者はバッサバッサと斬られます。
(20年ほど前、左京の東鞍馬口通りに研ぎ場があった頃、夜確か末備前の下地をしていた時、「こんばんはっ」と男性が入って来ました。
上品な御顔立ちの初老の紳士です。おもむろに懐から何かを出しながら「おじさんはね」と話始められた事を覚えていますが、手にあったのは新選組血風録のビデオのチラシ。
その方は新選組血風録で主役の土方歳三を演じられた栗塚旭さんでした。)

新選組が十津川屋敷を強襲した事実はないようですが、十津川屋敷は実在したものです。
最初は借家であったそうですが、その後十津川から木材3000本を京都まで運び、御所の東に建てられました。
正確な場所は分かっていなかったのですが、近年特定され、十津川村教育委員会により碑が建てられています。
https://kyoto-katana.at.webry.info/201003/article_8.html ←十津川屋敷についての過去ブログ

幕末、十津川郷からは多くの兵が出ています。
鳥羽伏見の戦いでは十津川隊からも多くの戦死者が出ていますし、北越戦争にも御親兵として十津川郷士200名以上が出兵しています。
十津川郷士には戦死者の他、切腹して果てた人も何人もいますが、それは所謂詰腹を切らされたのではありません。
十津川の郷士には通常の武士の様な組織はなく、直接の主君もありません。なので詰腹を切らされる事もないんです。
普段は山仕事などをしていた山民です。なのに何故。。
文久三年、十津川郷から京の中川宮にさしだした嘆願文に十津川郷についての紹介をしたくだりがあり、その中に「高山幽谷、僻遠多くは不毛の地にて食に乏しく土民ども雑穀木の実をくらい・・・」とあります。
そんな食い物すら十分に得られない地で、郷民皆刀槍を備え、いざという時には兵を出し、切腹までやってのけるとは。
十津川郷士は純粋な勤皇といわれますが、なかなか出来る事ではないです。



日刀保京都府支部 入札鑑定会

2月例会、今回は私が担当ということで、鑑定刀は新刀と新々刀、鑑賞刀に関の兼宜をお借りし並べさせていただきました。

鑑定刀

一号  刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉

     刃長 二尺三寸一分 反り 七分
     元幅31.2 (32.1) 先幅22.4 元重6.5(6.9)

二号  刀 銘 長曽祢興里 真鍛作

     刃長 二尺三寸六分 反り 五分三厘
     元幅29.5(30.3) 先幅20.1 元重7.5(7.7)

三号  刀 銘 井上真改
       (菊紋)延宝四年八月日

     刃長 二尺三寸五分 反り 五分
     元幅30.3(31.5) 先幅19.1 元重6.7(6.7)

四号  刀 銘 越後守包貞(二代)

     刃長 二尺四寸二分 反り 四分五厘
     元幅29.8(31.6) 先幅21.7 元重6.6(6.8)

五号  刀 銘 粟田口近江守忠綱 彫同作(二代)
        宝永五年八月日

     刃長 二尺四分   反り 九分
     (彫物 表:倶利伽羅 裏:梵字・梅)

六号 脇差 銘 荘司美濃介藤直胤(花押)(刻印 宮)
        嘉永二年二月吉日

     刃長 一尺三寸二分 反り 二分
     (彫物 表:樋中に草の倶利伽羅 裏:梵字・護摩箸・蓮台)

鑑賞刀

七号  刀 銘 兼宣作(徳永)

     刃長 二尺一寸六分 反り 八分二厘
 
 
 
1~4号は寛文頃の刀です。
同じ寛文でも肥前刀は一般的な寛文新刀スタイルとは少々違う姿の刀が多くあります。

肥前刀の反りが気になり調べてみました。

初代忠吉の反り、平均五分三厘(サンプル数88口) 二代の平均五分七厘(サンプル数63口) 三代の平均五分七厘(サンプル数50口)

平均値を調べる事がどれ程の意味があるかは少々疑問ではありますが、典型的な寛文新刀の反りを五分程度とすると、やはり少々深い反りです。
(初代忠吉は慶長新刀スタイルの刀があるため反りの平均値は下がります)
数値で表すと僅か数ミリの違いですが、この数値が姿に反映されると違いははっきりと表れます。姿とは微妙な物です。

鑑賞刀としてお借りした兼宣は、鎬の高い造り込み。
「差し込み研ぎ」の名人といわれた山田英研師による差し込み研ぎの御刀です。
長期にわたり打ち粉で丁寧に手入れされて来ており、一見肌立って見えますが子細にみると非常に繊細な流れ肌で、美濃映りが鮮明に現れています。

この度も大変貴重な品々を支部例会のためにご提供くださいました皆様には心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

陸奥守忠吉
一号刀 陸奥守忠吉

虎徹
二号刀 長曽祢虎徹

井上真改
三号刀 井上真改

越後守包貞
四号刀 越後守包貞

一竿子
五号刀 一竿子忠綱

大慶
六号刀 大慶直胤

兼宣刀
鑑賞刀 兼宣