吉岡一文字をみるがごとし

尚光ですが、薫山先生の調書が残っている事がわかりました。
「吉岡一文字をみるがごとし」とありました。
応永の有名刀工の下で力を尽くした人だったのでしょう。
名工です。
こういう刀工の作品を探すのも楽しいですね。
今夜もずっと押形。 自分の描けなさに疲れ果てたわ。



利光・尚光

両刀再び拝見。
利光は何度目であろうか。
今回は、初めて鞘を掃った時を思い出した。
毎回思うのだが素晴らしい差込研ぎ(古研ぎではない)。 
拝見する度に前回よりも刀の良さと研ぎの良さが増して見える(手入れにより良くなっていると言う事では無い)。
どう考えても今の私ではこの研ぎは出来ない。
尚光。 美しい地鉄。 キラキラしている。 地錵と地景が繊細に働く。
先日購入した中央刀剣会の土屋押形所載の品であった。
温直さんも手に取って見たのか、これを・・・。
盛光みたいだと書いてある。 
これくらい出来た盛光を探すのも大変だ。
土日は押形。

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濃過ぎ。 しかし今回はやっと墨を掴んだかも知れない。 



備前刀のことなど

時間をつくり、行きたかった「備前刀の系譜」に。
LEDペンライトを点けるとそこには備前刀にしか無い世界がひろがっていました。
刀を見る目は毎年変わりますが、もちろん今までの一番高い意識で見る事が出来たはず。
さらに思いもよらず備前伝の刀鍛冶さんと会場でお会いし、様々御教授頂きながら拝見する事が出来ました。
贅沢至極。
鎌倉備前凄し。
印象深い品は多数ありましたが、気になったのが光忠・守家合作太刀。
焼き出しに古調な腰刃を焼き、ぱっと見は古一文字かと思いました。
気になり帰宅後調べてみますと、刀剣美術第8号(昭和26年)に記載がありました。
「合作の研究 佐藤貫一」の記事、
 ~前略~ 時代順に見てまず一番古い合作の例と思われるものは尾州徳川黎明会の光忠・守家合作の太刀である。この太刀の押形等は古来の押形集にも見られないが、この太刀に就いて剣話録に今村翁が次のように述べている。 
  『光忠と守家両作の太刀が侯爵徳川家(旧尾張家)に余程結構なものがある。是は生中心で、目釘穴三つ、佩き表に「光忠」の二字裏に「守家造」と三字あり、刃長さ二尺六寸八分半、明暦二丙三百五十貫、本阿弥光温極めにて、出来は矢張頭バチ丁子頗る見事なもので、光忠上出来と見える。然るに太刀姿は一体にて円く反って、守家の太刀姿によく似て居り、先ず云って見れば守家が下地を造り、光忠が焼刃を焼いたのであろうかと思われる。応永以前のもので両作銘はないもののように是まで聴いて居たが、右の両作銘などもある』 
  その作風から言えば今村翁所説の通りであって、如何にも鎌倉中期の備前物として首肯せられるものであるが、「光忠」「守家造」の銘字は両方とも果たして良いかどうかについては研究の余地があると思われ、以前拝見した記憶から言ってもどうも無条件に賛成しかねるものがあった。下地は守家、焼き刃は光忠と言うのも如何にも合理的に似ってしかも後から考えた理屈と言った気持ちが残る。 ~後略~
と言う内容。
昭和26年と言う古い記事ですが、その後どの様に扱われて来た太刀なのか・・・。
出土刀のTVを見た。
・・・確かに。
古名刀を見ると、「今では考えられないが、武器なんだから極短時間で量産したにも関わらずこの様に素晴らしい品が出来たのではないか」と言う風に考える事が多かったのですが、江戸期のある種の刀装具の様に、作り手は時間とお金の概念を捨てないと出来ない仕事があり、それを刀身にも当てはめて考えるべきなのかも知れないなどと思った。
またTVですが、バラエティー番組で鑢の製作工程をやっていた。
味噌を焼き刃土風に塗ったり、鉛で焼き入れをしたり。 自分は何も知らないのだなぁと改めて認識。
バラエティーテイストに落としてはいますが、精度が問われる工業製品の製作工程が見られて大変勉強になった。
工具はMade in Japanにしたい。(実際全てと言うわけには行きませんが)



厳島神社の雲次拵え風鐔

またですが、今度は厳島神社の雲次の拵え風の鐔に。

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縁の色のせいだと思いますが、やはり真っ黒な鐔では違和感が。
でまた金に。

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やはりこちらの色が落ち着きます。
板切れに黒も金もペイントマーカーですが、こうやって遊んでいるのが楽しいもので・・。
鐔のサイズもこれが好みです。
二尺三寸の刀に5.9cmです。
鞘も柄もそういう出来ではなく、本当は赤銅の大きな鐔が似合う拵えなのですが。