古波平

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薙刀 無銘 伝古波平(木下勝俊所用 / 高台寺蔵)

22回目。
大和鍛冶は鎌倉末期から室町時代にかけて各地に移住し、志津、宇多、浅古当麻、美濃千手院、入鹿などの一派を成し繁栄ました。
しかし平安時代の末期、既に千手院鍛冶が薩摩に移住し波平一派を築いています。
波平の作品は南北朝時代より古い物全てを「古波平」と呼びますが、言い換えると「平安末期から南北朝までが一括り」ともいえ、この様な流派は他にはなく特異な例です。
それはこの一派が伝統の作刀技術を守り続けたため作風の変遷が少なく時代判定が困難なことと、なにより一つの流派が途切れる事なく存続し続けた事によります。

この薙刀は最低でも三〜四寸程度は摺上げており現状二尺三寸六分ですが、元重、茎重ともに大変厚く、今なお豪壮さを保ちます。
地鉄は非常に柔らかく、刃寄りの柾肌に絡み二重三重四重と綾杉状の働きを見せ、古波平特有の出来口を示します。

豊臣秀吉の正室、北政所(ねね)の甥、木下勝俊(長嘯子)の所用として高台寺に伝わる品で、刃や平地に強い切り込み痕があり、本薙刀のかつての活躍が偲ばれます。

高台寺
高台寺掌美術館



金房

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大太刀、無銘 伝金房(本能寺蔵)

21回目。
室町時代の大和物に金房一派があります。
この派の詳細は不明ですが、手掻系といわれています。
作風に大和色は薄く、末備前や末関、平高田などに似る作を多く見ます。

この太刀は刃長三尺四寸六分と長大です(茎先を切断しています)が、重刀指定の金房の作に類似の品が数点あり、種別はいずれも薙刀です。
本太刀も種別を薙刀にと思いましたが少し気になり、大太刀を多数所蔵する日光二荒山神社の「二荒山神社男体山頂鎮座1230年記念 宝物館開館50周年記念 宝刀譜」(平成24年)を確認をしました。
宝刀譜にはこの太刀と同形状の物を多数所収(寸はもっと長大な物が多い)、それらは全て大太刀と記され、また小川盛弘先生の解説に「長巻の柄が付けられた大太刀」との一文があり、やはり本刀は大太刀とすべきかと思います。【長刀(なががたな)とする場合もあるようです】

長巻の名称が出て来ましたので、薙刀と長巻について少し。
「長巻直し」「薙刀直し」という名称がありますが、 愛刀家の間ではこの区分が曖昧で、協会でも数十年前までは用語が統一されていなかったようです。

重要刀剣指定品には、薙刀形状の造り込で茎を切り詰めて刀に直した物が多数あります(横手の有るものと無い物両方を含みます)。
第1回指定品~60回辺りまでを確認したところ、第26回頃までは、同じ形状でも、「長巻直し」と「薙刀直し」の名称が混在していました。しかしその頃を境に「長巻直し」の名称は消え、全て「薙刀直し」に統一されています。

過去、刀剣美術誌上で、長巻と薙刀の違いについての論考が発表された事もありましたが、結論を明確にはしていませんでした(1987年刀剣美術誌第368号、「長巻と薙刀の相違点」辻本直男)。
しかし二荒山神社の宝刀譜では小川盛弘先生が「長巻=拵え名称」との見解を示されている通り、現在ではその様に考えられています。
また最近では京都国立博物館で開催された「京のかたな展」図録巻尾の用語集にも以下の通り記されています。(この用語集は単に過去用語の使いまわしはせず、今回の図録用に検討し収録されています)
【薙刀(なぎなた)】長柄武器の一つ。長大な棒状の柄(え)に刀身の茎を差し込んで固定する。長巻との分別は刀身部の形状ではなく、拵えによる。
【長巻(ながまき)】長柄武器の一つ。片刃で、長大な柄(つか)に刀身の茎を差し込んで固定する。薙刀との違いは刀身部の形状ではなく、拵えによる。

最後に、余計ややこしくなるかも知れませんが、一応書きますと。。

・薙刀状の刀身は横手の有無に関係なく全て「薙刀」。
・薙刀を刀に直した物は横手の有無等関係なく全て薙刀直し(「長巻直し」との言葉は現在は使用しない)
・薙刀拵入り薙刀は刀身と拵を合わせて「薙刀」。
・長巻拵入り薙刀は刀身のみをいう場合「薙刀」、拵は「長巻(長巻拵)」。
・長巻(長巻拵)に刀身(薙刀及び大太刀或いは長刀(なががたな))が入ったものは刀身と拵を合わせて「長巻」。

※長巻拵えとは、長い柄を細縄や革で巻いたもの。
※刀身は通常の刀形状で、茎が薙刀の様に長い造り込みの物を現在協会では長刀(なががたな)と呼称しています。

本能寺



包行(末手掻)

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短刀、銘 大和國住包行
     寛正ニニ年十一月日

20回目になりました。
また大和本国に戻り、末手掻の包行です。
室町時代に入り大和各派は衰退します。尻懸は則長と銘のある室町期の短刀を時折目にしますが、多くは数打ちと思われる物です。
また無銘の極めに「末保昌」とある品を見ますが多くはありません。
保昌の通字「貞」を銘鑑でみると室町時代に、貞清、貞次、貞光、貞材の記載があり、彼らが少ないながらも作刀を続けていたようです。
そんな中、大和五派中唯一手掻派が盛んに作刀を続けます。
銘鑑で手掻の包某を調べると室町期だけで90人を超え、包某以外の銘も多数あり、その繁栄ぶりがうかがえます。



直江志津

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刀、無銘 直江志津

19回目です。
前回は手掻でしたが今回は直江志津。
大和手掻包氏が美濃国志津に移住し兼氏と改名、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍し一門が繁栄しています。その二代目以降及び一門の総称が直江志津です。
直江志津に関連する呼称がいくつかありますので以下に整理します。
因みに刀の世界では「志津」「直江」と刀工名の様に使用していますが、志津、直江は元来地名です。志津から直江へは電車で二駅ほど。近いです。(行った事はないです。例によりgoogl map。楽しいので確認してみてください)

志津=手掻包氏美濃移住後の名称(志津三郎兼氏)。大志津。

大和志津=兼氏の大和在住時代の名称(大和在住包氏時代の作は全て無銘)。包氏美濃移住に追従せず大和に残留し、その名跡を継いだ鍛冶の名称(広義大和志津。この後代包氏在銘作は現存しますが初代包氏在銘作は未発見)。

直江志津=兼氏の門葉は直江に移り住み栄えますが、二代以降の兼氏及びそれらの総称。直江。

押形の刀は大摺上げ無銘で、反り頃合いに中鋒が伸び、身幅広く重ねが若干薄い南北朝時代の姿態。板目に刃寄り柾、刃文も典型で直江志津の良刀です。



包真(手掻)

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刀、(金象嵌銘)包真

18回目は大和手掻です。金象嵌銘で包真。
室町時代の手掻派の作品は末手掻とよばれ、包真も通常末手掻に分類されますが、包真初代は包永門で時代を康安(南北朝期)といいます。
大和五派は室町時代に近づくと大きく衰退し、保昌、尻懸は辛うじて作品を残しますが、千手院、当麻はほぼ消滅(移住など)、唯一手掻派のみが盛んに作刀を続けます。
その末手掻の作品も大和色は次第に弱まり、柾肌は目立たなく、造り込みも尋常な物へと変化して行きます。
押形の包真ですが、柾肌こそ目立ちませんが、身幅広く、鎬は高く広く、未だ大和物然とした姿態を残す作品。
砥当たりも柔らかで、地味ながら味わい深い直刃を焼いており、南北朝期は下らないものと見てよさそうです。



長吉(伝龍門)

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太刀、銘 長吉(伝龍門)

17回目はまた大和に戻ってきました。
今回は伝龍門と極められた長吉二字銘、生茎の太刀です。
龍門鍛冶は鎌倉時代、大和国龍門荘で勢力を誇っていた大寺院、龍門寺に関係する鍛冶といわれています。(奈良盆地の南端、西に当麻寺、東に浅古、直ぐ南に多武峰(談山神社)、そのまた南に龍門寺跡があります。楽しいのでグーグルマップで検索してみてください)
龍門派の有名工といえば延吉ですが、この工は千手院派の流れといわれています。
しかしMUSEUM No.475、小笠原信夫先生の「龍門延吉に関する一考察」によると江戸時代初期頃までの刀剣古伝書には延吉が龍門に住したと記すものはなく、千手院鍛冶とする記述も江戸後期になり初めて出て来るといいます。
大和鍛冶は大寺院の勢力下にある訳ですが、その盛衰により立場がかわり、また南北朝期の混乱にも巻き込まれます。
まずこの辺の歴史との関係を知らなければ、龍門に限らず大和物を理解する事は難しそうです。

延吉の銘字は大きく分けて二種あります。作風も大和様式の作品と丁子刃で映りのある備前様式の作品があり、これら全てを同人とする説、或いは別人との説もあって未だ結論は出ていません。(この長吉以外に過去二口、龍門の研磨経験がありますが、一方は完全な大和様式、もう一方は大和と備前の折衷でした)
さて押形の長吉ですが、往昔抄に「大和国吉行子龍門山本長吉作之(嘉暦年紀)」があり、この工に該当する可能性があります。
鎬を高く造り込み、総体に柾気の強い地鉄。よく働く千手院風の刃文を焼き、区には焼き落としを見せ、研ぎ味は、映り気も苦にならずサラリとして良く晴れる地鉄。
龍門長吉の作品がどの程度現存するかは不明ですが他に聞いた事はなく、極めて貴重な品である事は間違いありません。



信長(浅古当麻)

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短刀、銘 信長(浅古当麻)
 
16回目。信長と二字銘で「浅古当麻」と鑑定されている短刀です。
浅古当麻は、大和国浅古(現奈良県桜井市浅古)に住した当麻信長が室町時代初期、越前に移住し代を重ねたといわれる刀工です。
銘鑑を見るとこの浅古当麻信長の他、越後の山村系に一人、加賀の藤島系にも数人の記載があります。
今回信長を調べる中で解粉記(慶長十二)にその記述を見ました。そこでは信長を藤島鍛冶とし、藤島出来の信長と当麻出来の浅古当麻(個銘の記載はない)との違いを指摘しながらも「浅古当麻かとも思う」と、信長の浅古当麻説も述べており、悩みの程がうかがえます。
重刀に浅古当麻とされる信長の指定がいくつかありますが、その解説に「作風は藤島に似る」とし、今回の押形も特に差表などは藤島と同種の刃文です。
しかしこの片切刃の造り込みや常とは違う銘振りと茎仕立てから、銘鑑にある山村(京信国系)の信長も気になるところです。
 
尚、浅古とは地名ですが、「越前国浅古の地に信長が移住し…」との解説を度々目にします。これについては刀剣美術第414号(平成3年7月)、米村正夫氏の「浅古当麻(信長)の浅古とは何処か」に詳しい記載があり、また当麻派についても大変興味深い内容で、ご興味おありの方はご一読下さい。



当麻

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短刀、無銘 当麻(附本阿弥光忠折紙)

15回目も大和物。当麻です。
当麻派の在銘作は僅少ではありますが、国行、有俊(含長有俊)、友行、友長などに遺されており、また「当麻」とのみ銘を切る作品も数点確認されています。
それら在銘の当麻派作品には比較的穏やかな出来が多い中、無銘の当麻極めには大和色の中に錵が一段と強く、働き豊富な相州気質を持つ作品が多々あります。
これは前述(尻懸)の通り本阿弥の古極めなどを踏襲した結果ですが、当時はその様な作柄の在銘作が存在したのではないかといわれています。

さて押形の当麻ですが、重ね厚く内反り、板目に柾で地錵厚く、刃中錵づき金筋入り、茎尻は当麻派の特徴である片削風入山形となります(尻懸も近い形状)。
そしてこの短刀には享保名物帳編纂に大きな役割を果たした本阿弥光忠の折紙が附帯しますが、現存する当麻派の享保名物は二口の上部当麻で、本短刀は造り込み及び作風がそれに近く、大変興味をそそられます。



尻懸

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刀、無銘 尻懸

14回目は大和物、大磨上げ無銘の尻懸です。
鎌倉時代から南北朝時代にかけての大和には、千手院、保昌、手掻、当麻、尻懸と五大流派があり、大和五派と呼ばれています。
大和物に在銘の品は少なくその多くが無銘ですが、少ないながらも各派に在銘の品が残っており、それらが現在の無銘鑑定の基準となっています。
また古来よりの無銘鑑定の掟といいますか傾向もあり、大和物に対してもそれらを総合した判断が行われています。
さて押形の刀ですが、鎬が高く手持ちの重い大和物然とした造り込みに、柾気の強い地鉄、柾肌に絡む働きが豊かな刃文に、尻懸極めの要となる互の目が目立つ出来となっています。



清光②

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刀、銘 備州長船清光
    天正二年八月日

13回。今回も末備前の清光です。
前回の清光は鎬筋、棟角共に重ねが非常に厚く、重量感たっぷりの造り込みでした。今回は鎬重ねは十分有りますが棟に向かい少し重ねを減じる造り込みがされており、前掲清光より手持ちは頃合いです。(棟重ねの減じ方が著しい場合「棟を盗む」「棟を削ぐ」などと表現します)
地鉄は新刀並に詰み、刃文は切っ先に向かい次第に華やかとなり、皆焼状となっています。