鍋島景光

2019年06月14日【ブログ】

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続けて彫のある短刀の全身押形を採拓させて頂きました。
鍋島家に伝わった景光の短刀に倣い、高橋貞次が作刀したものです。

表 元亨三年二月日 以余光鉄 備州長船住景光
裏 鍋島景光ニ倣ㇷ 源貞次 紀元二千六百一年八月日 彫同作(花押)
棟 為井内彦四郎氏作之

片切刃短刀で、表 樋中に素剣の浮彫、裏 孕龍。
この造りは、貞次が倣った景光元亨三年(重美)の八年前、来国俊正和四年の短刀(重美)にも見られます。
来国俊の彫りが後彫りでなければ、景光は来国俊の作に倣ったのかも知れません。(大本となる作は海老名小鍛治宗近と考えられるようです)
また、少し寸は延びますが肥前忠吉にも同作があり、特別重要刀剣に指定されています。

貞次作の本短刀は、紀元二千六百一年(1941年)の作刀年紀がありますが、鍋島家に伝わった重美の景光短刀は1940年、靖国神社遊就館で開催された「紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会」に出陳されています。そこで景光短刀を見て影響を受けたのか、または棟銘にある注文者、井内彦四郎が遊就館で見て注文をしたものか、興味は尽きません。

紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会出陳刀図譜景光掲載頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139254/201
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139254/200

(樋中の素剣の浮彫ですが、彫りの底まで硬く磨り写してしまったため、立体感の無い平面な彫りとして記録する事になってしまい、この採拓方法は正しくありませんでした。底に向かいグラデーションを付けるか、協会の採拓法が正しいと思います)

欄間透

2019年06月14日【ブログ】

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美濃の陳直(のぶなお・桃山時代)の短刀。
重ね9.3mm 柾目が目立つ出来です。
欄間透の彫りがあります。

彫り物のある刀は押形採拓に手間が掛かるため避けて来たところがありますが、この陳直は大変出来も良く、何より存在自体が珍しい陳直ですので押形採拓をさせて頂きました。

しかし欄間透である上に彫がかなり深い位置にあり、彫をあまり磨り出せず。。
以前初代忠吉の宗長彫の欄間透の押形をとらせて頂いた事があり、確認してみると三鈷柄までなんとか磨り出せていました。
http://kyoto-katana.com/wp-content/uploads/2014/05/rannmatadayosi3.jpg
もう何年も前なのでどうやって採ったのか覚えていません。。
今回は差し表にちょっと大きめの穴が空いてしまった。

小柄櫃

2019年06月05日【ブログ】

一昨日、研ぎ場の本棚の最上段の端に見慣れない小冊子を見つけ、背伸びして手に取ると初期の「大素人」でした。
何気にパラパラめくると、山銅鐔について書かれていました。
以前から、もの凄く気になっていたんです。

笄櫃が綺麗な洲浜型にならず、ちょっと歪で尖り気味、小柄櫃は角ばって細い。
このタイプの櫃穴の鐔は室町末期から桃山期の物だと聞きます。
しかしその頃の小柄は彫が高く豊かな肉取りの物が多く、この細い小柄櫃を絶対に通りません。

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私もそういう鐔を持っていますが、小柄櫃の幅を計測すると3.9mm。

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それ程肉厚でなく、しかも裏がこんなにべこべこの小柄でも通そうとすると、小柄櫃の幅は最低でも5mmは必要です。

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こちらは室町末期頃~桃山といわれる厚手の小柄。これだと最低でも8mmは無いと通りません。

このタイプの櫃穴を持つ鐔は本当に室町末期から桃山期の物なのか、ずっと気になっていました。
「法隆寺西円堂奉納武器」には西円堂に奉納された鐔の押形が多数載っています。この本を買った当時まず一番に鐔の押形にある櫃穴を確認しましたが、極僅かしかこの櫃穴を持つ鐔はありませんでした。
一昨日見つけた大素人の小論でも、西円堂の鐔にこの櫃穴を持つ物が殆ど無い事に触れ、内容の詳細は省きますが、このタイプの鐔はもっと古い可能性があるとの見解が示されていました。

この細い小柄櫃を通る小柄小刀はどの様な物なのか、頭には漠然と「鉄の共小柄」というものが浮かんでいました。
具体的には姫鶴一文字に付いている梅の透かしの共小柄です。(共小柄とは、小柄と小刀が繋がった鉄で、一体になった物をいます)
ちょっと気になり、「打刀拵」を開いて確認を・・・。
なんと小刀には「国助」の銘。白黒写真ですし、意識も薄かったので気付いていませんでした。
解説にもちゃんと書いてました。 銘、国助。「小柄は江戸時代に添えたものである」と。
全然違ったのですね。
同種の小柄が上杉の高瀬長光にも付いていますが、この小柄の透かし部分が折損しており、その傷んだ雰囲気の写真から私が勝手に古い物だとの印象を強くしてしまっていました。(この小柄も江戸時代の物との解説でした。銘、元利)

またたまたまですが、今日届いた「刀鍛冶考」に「小柄小刀私考」。
ここまで残って居ないなんて、”こつ然と姿を消した”くらいの印象なのですが、結局は消耗されて残っておらず、僅かに出土品として確認される程度のようです。
それにしても、大量にあったであろう品でも、こんなにも残らない物なのですね。
不思議で仕方ない。

一号 刀

少し反りが強め。大互の目で匂い口深い。尖り刃が少し。三品帽子ではない。
肌がよく出る。

互の目の形や匂い口の雰囲気から山城新刀だと思うが堀川系ではない。
三品帽子でなないが、尖り刃が2,3個あるので三品系じゃなかろうか。2代か3代の伊賀金の互の目に見える。
伊賀守金道と入札

 

二号 刀

直ぐ焼き出し。
よく詰んで美しい地鉄。ある程度リズムのある湾れや互の目。

私があまり分からないタイプの刀・・。分からないので越中守正俊と入れてみる。

 

三号 脇差

新刀。匂い口の深い互の目。鎬高。
これまた難しい。

高井信吉と入札。

 

四号 刀

丁子。荒錵がつく。総体に板目流れる肌だが刃寄りが無地風に詰む。その地肌の境目が明瞭。
横手下から大きく丸い帽子。
丁子の形からこれだと思う。

浜部寿格と入札

 

五号 太刀

細身。大変よく詰む地鉄。締まる直刃で小足。所々硬く感じる節あり。
地斑風の乱れ写りが鮮明でかなり低い。明瞭に三作帽子で佩表返りごく浅い。
この少し節ばる直刃と明瞭な三作と浅い返りと低い位置の地斑風乱れ映りはよく覚えている。

長船助長と入札。

 


通り
イヤ
イヤ

 
二号、これかも。越後守包貞と入札。
三号、全く分からない。違うと思うが刃文は似ているので、上総介兼重と入札。
四号、荒錵は見た事が無いが、絶対当たりだと思っていたので困った。何度も見ているとこの刃文にも見えて来る。河内守国助と入札。
 

国入
イヤ
イヤ

 
二号 助直
三号 畿内、東海道がだめ。今思えば三善長道を忘れていたが、この時は信濃大掾忠国と入札。(結局長道でも外れだが、その方が良い札だと思う)
 


イヤ


 
一号 太刀 銘(菊紋)近江守源久道
        延享二年乙巳二月日
二号 脇差 銘 津田近江守助直
        天和三年二月日 江州高木
三号 脇差 銘 江州住人佐々木善四郎源一峯
四号 刀  銘 於東都加藤綱俊
        天保三年二月日
五号 太刀 銘 助長(長船)

この日の出題刀は私のように雰囲気だけで入札鑑定をやっているのでは当たらない、ちゃんと勉強しなければ当たらない問題でした。
入札鑑定は楽しいです。
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入鹿實可拝見。馬手差しのこと

2019年05月27日【ブログ】

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入鹿實可の短刀(さねよし/重要刀剣)を拝見する事が出来ました。
以前より重刀図譜では見ていましたし、「紀州の刀と鐔」にも所載で押形は頭にありましたが現物を拝見出来る日が来るとは。。

刃長26.8㎝(八寸八分五厘)
元幅28.1mm(庵頂点計測29mm)、元重4.5mm
内反り、三つ棟、茎鑢 銑鋤

拝見した瞬間、この短刀の持つ力というか、ちょっと異様にも感じられる程の印象に驚きました。
重刀図譜と「紀州の刀と鐔」、どちらも元から先まで押形で記録されてはいるのですが、上身のみの押形と、茎とフクラ下までの押形をセットにした所謂部分押形です。
この部分押形をずっと見て来たわけですが、今回初めて現物で全身を拝見、その姿に驚きました。

重刀図譜解説では時代を文亀とし、「紀州の刀と鐔」でもそれに従うとしていますが、姿だけで見れば少なくとも南北朝まで上げたくなります。
しかし銘鑑を引くと、文亀に加え応永にも實可を載せ、この応永の實可に出典として(重刀)と記してありますので、この實可短刀は時代を応永まで上げて考えてよいようです。
(「紀州の刀と鐔」の解説では「一見南北朝末期の応安ごろを想わせる姿であるが、はたして応安ころにこの實可がいたか否か疑問であるし、地刃も南北朝としては若いので、所伝に従う」とあります)

刃長に対し身幅がかなり広く、重ねは薄く、そして強い振袖茎、地肌は完全な柾目です。
「紀州の刀と鐔」の解説に応安頃を想わせる姿だと書いてはいますが、部分押形ではこの独特な姿は伝わりません。
改めて、全身押形の重要性を認識しました。

實可を手にし、記憶にある近い姿を辿りましたが、思い浮かんだのは重刀の延寿国時短刀や重要文化財の二王清綱の短刀です。
(調べてみると重文の清綱は刃長27.57㎝、元幅26mmで、国時もこれに近いです。實可は更に身幅が広く寸が詰まり、ずんぐり感が強い)
あの清綱短刀も振袖になっていますが、実は茎尻を摘まんでおり、切られる前はこの實可と同じ剣形茎です。

ところで、ずんぐりした印象以外にちょっと異様に感じるこの感覚はなんなのか、ずっと考えていたのですが。。
重刀図譜にもその他にも書かれていないのですが、実はこの短刀、馬手差しとして造られた短刀ではなかろうか、そう思うようになりました。

例えば左文字は「左」を表に、「筑州住」を裏に切るという事になっています。
新刀期の居住地と銘を表裏に切り分ける諸工も居住地は裏に切る例が断然多い。
この例に従うと、この實可も「實可」が表で「入鹿」が裏、即ち通常短刀という事になるのですが、
この實可、実は入鹿が表で實可が裏じゃなかろうか。
ちょっとややこしくなって来ましたが・・・。

「入鹿」を居住地としてでなく、一派の名称として冠していたと考えたり(「入賀住」と居住地として切る例はありますが)、或いは居住地を先に切ってもおかしくないでしょと考えたり。(通常は「入鹿實次」の様に書き下すのですから。)
色々調べてみると、居住地と刀工銘を表裏に切り分ける古刀期の刀工でも居住地を表に切る例もありました。(平造り脇差 表 能州笠師 裏 国長作)

さらにややこしい話になりますが、そもそも馬手差しですが、これがまたよく分からない物ではあります。
普通に左腰に差すのではなく、右腰、或いは右前や右後ろに差すのは確かだとは思いますが、柄を前にする、柄を後ろにする、柄を前そして柄が下を向く様に、柄を後ろにそして柄が下を向く様に、さらにはそれら全てに於いて刃が上を向くのか下を向くのか。

馬手差しは差し裏に銘を切ると言い、実際差し裏に銘のある短刀を過去数振り見ましたが、例えば通常通り左に差した短刀を帯から抜かずそのまま右腰にずらした状態が馬手差の差し方という説もありますが、これだと銘の位置は通常短刀と同じになります。
腰に差した時、銘は体の外側になる様に切るのが基本と考えたい場合で、馬手差は差し裏に銘があるのだと言おうとすれば、右腰に差し、柄を後ろにしたならば、刃は上ではなく、下に向けなければなりません。ややこしい。。

馬手差し拵えはめったに見ませんが、幕末の物は見た事があります。その拵えは栗形、返り角など全てが通常の逆になっているという単純な物でした。
法隆寺西円堂にはもっと古い馬手差し拵えが複数残っています。
これらは素直に全てが逆という物ではなく、返り角の位置が違います。
栗形は素直に逆なのですが、返り角が、通常は鞘の棟寄りに付く物ですが、全て刃側に付いています。
この拵えを右腰に差すと、柄を後ろに刃は下。或いは、柄が前、そして柄は下向きで刃は上向きです。
それにしてもこの柄が下向き説は本当でしょうか。私なら、どんなに鯉口を固くした所で、抜け落ちないかと気になって走ったり飛んだり出来ません。

簀戸国次

2019年05月27日【ブログ】

簀戸国次の刀(重刀)と平造り長寸の脇差を拝見。
「簀戸」とは地名や苗字ではなく、銘字の特徴から出た通称です。
国次は同名が数代続きますが、初、二代銘の国の字は”図”に少し似た特徴的な書体で切り、この字が庭の入り口などに作られる簡易な戸、”簀戸”に似ている事からそう呼ばれています。
作刀地は紀州の粉河。(和歌山市の東、紀ノ川沿いの地)
室町時代前期に入鹿の則實がこの粉河の地に移住し粉河鍛冶が発生、粉河寺に隷属した鍛冶と考えられていますが、詳細は不明のようです。

簀戸国次の刀は、移住前の入鹿鍛冶の作に比べると少しは多く残っているように思いますが、それでもめったに見る事はありません。
私もちゃんと記憶にある物は昔支部会に出た小ぶりな皆焼短刀だけです。(おそらく他に数振り見ていますが)
今回拝見した品はいずれも直刃。
刀は完全な柾目肌で脇差は刃寄りは柾ですが板目も目立ちます。
刀の方がより簀戸らしさが出ているのではないかと感じましたが、匂い口の締まった細めの直刃、刃は沈み気味で柔らかく、おそらく地刃の硬度さは殆どないと思います。
地には二重刃、三重刃風に沈んだ湯走りが掛かり、帽子は焼き詰めまでは行かずという感じで極浅く返ります。
簀戸国次は”簀戸”の名が知られていますので、入鹿とつなげて考える事がなかったのですが、今回この二振りを拝見し、完全に入鹿の作風である事が分かりました。
めったに無い、或いはまず無い、というところだとは思いますが、もしも初二代の簀戸国次が鑑定刀に出たら多分入鹿か簀戸国次に入札出来そうです。
ま、出ないと思いますが。。出たらいいのに。

昔鑑定に出た簀戸国次の皆焼短刀にどんな入札をしたのかが気になり、入札鑑定記を見ましたら2014年にありました。しかしこの時既に見知りで「いつか分かりませんが、昔出た事がある箕戸だと思う。 簾戸(箕戸)国次と入札。」と書いて当たりになっていました。
この時の”スド”の漢字は、おそらく得野一男先生の「紀州の刀と鐔」を参考に書いたのだと思いますが、今回のブログでは”簀戸”を使いました。