昔のこと

子供に自分が小学生の頃の話を度々します。例えば1980年だと小学1年かな。
当時体罰は日常でしたのでうちの小学校の教師は竹の根で作った鞭や木槌を持っていて、事あるごとに頭をバシッっとやっていました。(地域差があるかも知れません。秘境と呼ばれる様な田舎だからまだこんな体罰があったのかも)
逃げ惑う子供達を背後から竹の根の鞭でバシーン!なんてのも日常で、やられたらモヒカン状にミミズ腫れになります。
それでも子供も親も誰も文句を言う人は居ませんでしたし、今思い返しても正直特に問題だとも思わないです。時代だなぁと思うだけで。
もう37年も経つのかぁ。。あぁ恐ろしい。
しかし、数字にしてみれば結構経ちますが当時の記憶は鮮明だしそんなに昔の事には感じないです。

親や身近な人から度々戦争体験を聞かされて育ちましたが、1980年当時で終戦後35年です。
学校で原爆の写真を見せられる授業が毎年8月にあり、写真が怖いので朝から憂鬱だった記憶がありますが、戦争の話なんて遠い昔の事の様に聞いていました。
1944年の東南海地震ではうちの田舎も結構な被害があり、家が傾いたとか田んぼが割れて鯉がピタピタ跳ねてたとか、ゴォゴォと余震が何日も続いたとか、そんな地震の話もずっと聞かされて育ちましたが、そうかぁ、たったの三十数年しか経って居なかったのかぁ。



まんじゅうを買いに行った

腕も痛いし腰も痛い、ちょっと自転車で気分転換。
一乗寺のお饅頭屋さんへ。
私は通った事の無い道、知らない路地が楽しく、車で走っていてもすぐに細い道に進入したくなります。
細いといっても半端なく細い道も多数あるわけで、ガードレールやいけず石(家の角に置いた石)に車体を擦る事も多々ありました。
今は少しは気を遣う様にはしていますが、元々車に全く興味がなく傷ついてもお構いなしで・・・。 以前、細い道をミラーを閉じて進んで居たら両サイドが完全に壁に挟まって動けなくなりJAFに助けてもらった事も。抜けられると思ったんですが。

今日は自転車、好きに細い道を。
ツツーッと南に下り、通ってみたかった叡電宝ヶ池踏切を渡り、いつも白川通高架から行ってみたいと思いつつ東に眺める丘陵方面へ。
丘沿いを走ると初めて見る住宅街が東奥へ広がります。
そのまま奥まで走り南下。 土壁の切れ目に「宮内庁」の文字で、あぁもう修学院離宮かと気が付きました。
少し南下し曼殊院へ登ろうとするも、ぼろママチャリと軟弱精神で坂道を断念、西下し白川通りへ出、一乗寺のお饅頭屋さんに。
抹茶のどら焼きは夏はお休みという事で、子供の好きないつも買う栗まんじゅうなどを。
帰りは同じ道は通りたくなくラーメン街道を少し北進し一本西の細い通りで北山通りへ。
アピカルイン横の小川沿いに岩倉へ出て帰宅。あぁ気持ちいい。

IMG_7078
松ヶ崎、五山送り火「法」の東。鹿二頭。可愛いんですが、こいつらのおかげで市内北部の大きな公園は一面黒豆だらけです。

で、帰り道ですが道路脇にこんな物がゴロゴロ。
IMG_7084
IMG_7083
これ、どうみても砥石ですよね。
山沿いの道でしたが、斜面を見上げると砥石層らしき物の露頭が確認出来ました。
IMG_7085
道路に転がっていた石を少し持ち帰り、面を付けてみました。
IMG_7089
やはり砥石です。

IMG_7087
転がっている砥石は全て風化していますし、地表に出る層も基本殆どが風化していると思います。
しかし刃物を当てるとなんとか研げました。
市内のこんな東に、しかもこんな身近にもあったんですね。
京都から産出する砥石の多くは仕上げ砥石です。この仕上げ砥が無ければ刀の刃文に光を当てて鑑賞する事は出来ませんし、細かな地肌を目視する事も出来ません。
仕上砥が京都から産出するという事は、そこで最初に研磨技術が発達したと考えるのが自然でしょうし、という事は鑑賞の文化発祥の地なんですかね。