入鹿實可拝見。馬手差しのこと

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入鹿實可の短刀(さねよし/重要刀剣)を拝見する事が出来ました。
以前より重刀図譜では見ていましたし、「紀州の刀と鐔」にも所載で押形は頭にありましたが現物を拝見出来る日が来るとは。。

刃長26.8㎝(八寸八分五厘)
元幅28.1mm(庵頂点計測29mm)、元重4.5mm
内反り、三つ棟、茎鑢 銑鋤

拝見した瞬間、この短刀の持つ力というか、ちょっと異様にも感じられる程の印象に驚きました。
重刀図譜と「紀州の刀と鐔」、どちらも元から先まで押形で記録されてはいるのですが、上身のみの押形と、茎とフクラ下までの押形をセットにした所謂部分押形です。
この部分押形をずっと見て来たわけですが、今回初めて現物で全身を拝見、その姿に驚きました。

重刀図譜解説では時代を文亀とし、「紀州の刀と鐔」でもそれに従うとしていますが、姿だけで見れば少なくとも南北朝まで上げたくなります。
しかし銘鑑を引くと、文亀に加え応永にも實可を載せ、この応永の實可に出典として(重刀)と記してありますので、この實可短刀は時代を応永まで上げて考えてよいようです。
(「紀州の刀と鐔」の解説では「一見南北朝末期の応安ごろを想わせる姿であるが、はたして応安ころにこの實可がいたか否か疑問であるし、地刃も南北朝としては若いので、所伝に従う」とあります)

刃長に対し身幅がかなり広く、重ねは薄く、そして強い振袖茎、地肌は完全な柾目です。
「紀州の刀と鐔」の解説に応安頃を想わせる姿だと書いてはいますが、部分押形ではこの独特な姿は伝わりません。
改めて、全身押形の重要性を認識しました。

實可を手にし、記憶にある近い姿を辿りましたが、思い浮かんだのは重刀の延寿国時短刀や重要文化財の二王清綱の短刀です。
(調べてみると重文の清綱は刃長27.57㎝、元幅26mmで、国時もこれに近いです。實可は更に身幅が広く寸が詰まり、ずんぐり感が強い)
あの清綱短刀も振袖になっていますが、実は茎尻を摘まんでおり、切られる前はこの實可と同じ剣形茎です。

ところで、ずんぐりした印象以外にちょっと異様に感じるこの感覚はなんなのか、ずっと考えていたのですが。。
重刀図譜にもその他にも書かれていないのですが、実はこの短刀、馬手差しとして造られた短刀ではなかろうか、そう思うようになりました。

例えば左文字は「左」を表に、「筑州住」を裏に切るという事になっています。
新刀期の居住地と銘を表裏に切り分ける諸工も居住地は裏に切る例が断然多い。
この例に従うと、この實可も「實可」が表で「入鹿」が裏、即ち通常短刀という事になるのですが、
この實可、実は入鹿が表で實可が裏じゃなかろうか。
ちょっとややこしくなって来ましたが・・・。

「入鹿」を居住地としてでなく、一派の名称として冠していたと考えたり(「入賀住」と居住地として切る例はありますが)、或いは居住地を先に切ってもおかしくないでしょと考えたり。(通常は「入鹿實次」の様に書き下すのですから。)
色々調べてみると、居住地と刀工銘を表裏に切り分ける古刀期の刀工でも居住地を表に切る例もありました。(平造り脇差 表 能州笠師 裏 国長作)

さらにややこしい話になりますが、そもそも馬手差しですが、これがまたよく分からない物ではあります。
普通に左腰に差すのではなく、右腰、或いは右前や右後ろに差すのは確かだとは思いますが、柄を前にする、柄を後ろにする、柄を前そして柄が下を向く様に、柄を後ろにそして柄が下を向く様に、さらにはそれら全てに於いて刃が上を向くのか下を向くのか。

馬手差しは差し裏に銘を切ると言い、実際差し裏に銘のある短刀を過去数振り見ましたが、例えば通常通り左に差した短刀を帯から抜かずそのまま右腰にずらした状態が馬手差の差し方という説もありますが、これだと銘の位置は通常短刀と同じになります。
腰に差した時、銘は体の外側になる様に切るのが基本と考えたい場合で、馬手差は差し裏に銘があるのだと言おうとすれば、右腰に差し、柄を後ろにしたならば、刃は上ではなく、下に向けなければなりません。ややこしい。。

馬手差し拵えはめったに見ませんが、幕末の物は見た事があります。その拵えは栗形、返り角など全てが通常の逆になっているという単純な物でした。
法隆寺西円堂にはもっと古い馬手差し拵えが複数残っています。
これらは素直に全てが逆という物ではなく、返り角の位置が違います。
栗形は素直に逆なのですが、返り角が、通常は鞘の棟寄りに付く物ですが、全て刃側に付いています。
この拵えを右腰に差すと、柄を後ろに刃は下。或いは、柄が前、そして柄は下向きで刃は上向きです。
それにしてもこの柄が下向き説は本当でしょうか。私なら、どんなに鯉口を固くした所で、抜け落ちないかと気になって走ったり飛んだり出来ません。

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