晴れた研ぎに

少し前、埋忠展に。
楽しみにしていた図録。最近の図録は素晴らしい論文が掲載される事も多く、それ一冊でもう全部OKな感じで非常にありがたいです。
大鑑並といえば、そんなもんじゃないと叱られそうですが、それ程の価値があると思います。

展覧会には山城物、大和物、備前物、相州物、北国物など色々並びますので、比較しやすいですね。
本当はそんなつもりではないのですが、嫌でもそうなってしまいますので仕方ない。
そうなるとやはり、備前物の晴れやかな鉄質が一際目立ちます。
晴れた研ぎが求められる事がよく分かります。



埋忠刀譜

 埋忠刀譜複製プロジェクト

「埋忠展」開催記念 名刀の記録がよみがえる!押形集『埋忠刀譜』複製プロジェクト

埋忠展開催を記念して「埋忠刀譜」がよみがえります。
当然埋忠銘鑑は持っているわけですが、やはりこちらも欲しいですよね。
一番にポチろうと思っていましたがうっかり忘れていて少しだけ遅れてしまいました。



日刀保京都府支部10月入札鑑定会

コロナの影響で2月以降の鑑定会が休止になっていましたが漸くの開催です。
今回は私が当番で、久々の鑑定をより楽しんで頂けるように、8口の鑑定刀とさせて頂きました。

一号刀 角津田
二号刀 そぼろ
三号刀 長義
四号刀 加州真景
五号刀 景光
六号刀 福岡一文字助弘
七号刀 来国行
八号刀 古備前恒遠

1号  刀  銘 越前守助広   《柏原美術館所蔵品(旧岩国美術館)》
          刃長 二尺四寸一分 反り 三分
         (江戸時代前期 寛文頃 1661)

2号  刀  銘 摂州住藤原助広(そぼろ)
          刃長 二尺二寸四分 反り 七分
         (江戸時代前期 慶安頃 1648)

3号 太刀  銘 備州長船長義作 《柏原美術館所蔵品(旧岩国美術館)》
         康暦元年十二月日
          刃長 二尺七寸三分 反り 一寸二分
         (南北朝時代末期 康暦 1379)

4号  刀 無銘 加州真景 / 左吉貞
          刃長 二尺一寸四分 反り 二分五厘 
         (南北朝時代中期 貞治頃 1362)

5号 太刀  銘 備前国長船住景光《柏原美術館所蔵品(旧岩国美術館)》
          年□月
          刃長 二尺二寸七分 反り 四分六厘
         (鎌倉時代末期 嘉暦頃 1326)

6号 短刀  銘 助弘(福岡一文字)
          刃長 八寸七分   反り 僅か
         (鎌倉時代末期 正安頃 1299)

7号 太刀 無銘 来国行     《柏原美術館所蔵品(旧岩国美術館)》
          刃長 二尺三寸八分 反り 八分二厘
         (鎌倉時代中期 康元頃 1256)

8号 太刀  銘 恒遠(古備前)
          刃長 二尺四寸四分五厘 反り 六分
         (鎌倉時代初期 暦仁頃 1238)

今回も鑑定会にご参加頂いた皆様には鑑定刀に対し非常に丁寧な扱いをして頂きまして誠にありがとうございました。
また、この度も大変貴重な御刀を鑑定刀としてご提供頂きました皆様には心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。



薄緑

太刀、銘 □忠(国指定重要文化財 旧嵯峨御所 大本山 大覚寺蔵/京都国立博物館寄託収蔵品)
  刃長 二尺八寸九分 反り 一寸二分三厘

源氏の重宝と伝えられ大覚寺に蔵する太刀です。(薄緑結縁プロジェクト
銘の一字目が朽ち込み判読出来ず、二字目に「忠」とあります。
作風から古備前刀工の作品と考えられていますが、この一字目については長く議論されるところです。
古備前で二字目に「忠」を使う刀工は、家忠、近忠(現存作無し)光忠(長船同人か)などが上げられますが、いずれも似通った「忠」を切り、未だどの刀工の作かは特定されていません。

押形からも分かりますが、表裏の鎬筋が歪む箇所が複数あり、これは樋中の深錆を部分的な荒砥研磨で除去した結果生じたものです。通常の錆を部分研磨で除去しても、ここまで鎬筋を歪める事はなく、相当な深錆であったことが窺われます。

銘の一文字目の朽ち込みは鉄鎺が原因ともいわれますが、その位置は鎺台尻付近よりさらに低く、腰高な古様式の太刀鎺であったとしてもいささか低く感じます。また朽ち幅が広く、例えば厚い革鐔や唐鐔の幅に近い印象です。
(鉄鎺は茎や刃区に悪影響をもたらす事が多くあったと思われ、現在では使用される事は殆どありません。木鎺も湿気や丁子油が影響し鎺下を大きく錆びさせる例を度々見ますが、革鐔も傷むと湿気を持つ状態となり、茎を錆びさせる可能性があります。)

茎全体をみますと銘付近から目釘穴下にかけて、茎の刃方が槌で叩かれ佩裏側に打ち返されており、押形採拓で紙が浮き拓写に苦労しました。これは打ち返しが目的ではなく、おそらく茎幅を狭めるために叩かれたものと思われます。
俵鋲を使用する太刀拵に入れるため、鑢で削り雉股に加工した茎がありますが、この様に槌で叩くなどの工作で狭めた茎も稀にあります。

仮にこの太刀に掛かる鐔が革鐔だったとすれば黒漆太刀拵などですが、本太刀の格式からすると俵鋲と唐鐔の付く衛府太刀拵などがより相応しく、いつの時代かは不明ですが、その様な格式の高い拵に入ったまま、人知れず朽ち進んだ時期があったのかも知れません。

さて刀身の方ですが、板目が少し肌立ち、焼き出し映りから全身に渡る明瞭な乱れ映りを見せますが、暗帯部が比較的狭く、刃に迫る低い位置の映りとなります。教科書通りに見るならばこの低い位置の映りは時代が下がる物ですが、先日UPした重文の助包もそうであるように、古備前や古一文字など平安末期から鎌倉前期の太刀にも低い位置の映りは多数存在します。また佩表の区を僅かに焼き落としますが、古備前物には度々同様の作例が見られます。
本太刀は刃長が二尺八寸九分と長大で重量は924.5g。正に重文にふさわしい名品ですが、焼き刃バランスから察すれば元はさらに豪壮で、先幅広く刃三つ角が張り、一段と武張った姿であった事が想像されます。

旧嵯峨御所 大本山 大覚寺